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5月の勉強会のお知らせ

2017/05/11
東京・新宿の慈母会館の勉強会は、
5月20日(土)15〜17時
参加費:1000円
予約不要

内容は、弘法大師空海の教えについてです。

 これまで取り上げてきた浄土信仰と密教を、相容れないものと考えている方もいらっしゃるかもしれませんが、私と私の世界という捉え方から解放された境地が仏の世界、浄土、曼荼羅で、それを来世で体験するか、今生のうちに体験するかの違いです。

 東京・五反田のチベット文化研究所の勉強会は、5月12、26日(金)にあります。
 前回残った六波羅蜜から、チベットの伝統のソース、『般若心経』『友への手紙』『普賢行願讃』などの話に入る予定です。
 こちらは、要予約
お問い合わせ・ご予約はチベット文化研究所にお願いします。
 13日夜(土)は、京都でお話しさせていただく予定です。主催はサンギーティの会(仏教国際交流会)です。

慈母会館「伝統仏教を学ぶ」
日時:5月20日15〜17時
会場:慈母会館(全日本仏教尼僧法団)


新宿区大京町31
JR信濃町または千駄ヶ谷駅下車
会費:1000円
予約等は不要
です。

内容:『大日経』から見る空海の十住心
 空海の『秘蔵宝鑰』は単なる『十住心論』の縮小版ではなく、『十住心論』には見られない記述や工夫が見られます。そのひとつが、典拠である『大日経』住心品とその註釈『大日経疏』の引用を、各住心の最後にまとめて掲げてあることで、それによって、空海の記述が自身の説というよりは、『大日経』の内容を、当時の日本の人々に伝わるように自分の言葉で語りなおした、翻案というべきものであることがわかります。
 今回は、典拠の『大日経』の引用を先に見ることで、空海がそれをどう理解し、伝えようとしたのかという観点から、『秘蔵宝鑰』の内容を考えていこうと思います。

 一回で終わらなかった場合は、6月につづきます。
23:02 講座・やさしい心を育てる | コメント(0) | トラックバック(0)

第15回現代仏教塾「チベットの浄土信仰」(吉村均)

2017/04/26
 先日、横浜市旭区の浄土真宗大谷派 高明寺・横浜聖地霊園でおこなった第15回現代仏教塾「チベットの浄土信仰」が、はやくもyoutubeにアップされていました。

講師:吉村均(中村元東方研究所)
日時:2017年4月16日(日)
  • チベットの伝統における浄土信仰
  • 仏の世界とは?
  • チベットの浄土信仰の裏づけとなる教え
  • チベットと日本の伝統における極楽浄土
  • 往生のためにもっとも重要なこと
  • 死の際の実践法①:ポワ
  • 死の際の実践法②:『チベットの死者の書』
  • 浄土はどこにあるか?
  • 自力/他力
  • 仏教思想における浄土信仰の位置



20:55 浄土 | コメント(0) | トラックバック(0)

短い極楽誓願(ナムチュー・ミンギュル・ドルジェ造)

2017/04/24
短い極楽誓願
ナムチュー・ミンギュル・ドルジェ造

エマホ
ゴツァル・サンギェー・ナンワ・タイェー・タン
希有なる阿弥陀仏と、

イェース・ジョウォ・トゥージェ・チェンポ・タン
右手に大悲(観世音菩薩)と、

ユンドゥ・センパー・トゥーチェントプ・ナム・ラ
左手に得大勢至菩薩たち、

サンギェー・チャンセム・パクメー・コル・ギー・コル
無数の仏陀・菩薩に取り囲まれている

デキー・ゴツァル・パクトゥメーパ・イ
希有なる無量の喜楽の

デワチェン・シェーチャウェー・シンカム・デル
極楽というその浄土に、

ダー・シェン・ディ・ネー・ツェ・プー・ギュル・マタク
自他がここより命が移るやいなや、

キェワ・シェン・ギー・パルマ・チューパ・ル
別のところに生まれることによる間隔を断ち切って、

デル・キェー・ネー・ナンテー・シャル・トンショー
そこに生まれて、阿弥陀のお顔を拝したい。

デキェー・ダー・ギー・ムンラム・タッパ・ディ
そのような、私がたてたこの誓願を、

チョクチュー・サンギェー・チャンセム・タムチェー・キー
十方の一切の仏陀・菩薩よ、

ゲク・メー・ドゥッパル・チンギーラプ・トゥソル
障碍なく成就するよう加持ください。

タヤタ・ペンツァ・ディヤ・アワ・ボダナエ・ソーハー
20:35 経蔵 | コメント(0) | トラックバック(0)

チベットの仏教についてのよくある誤解(その3)

2017/04/14
 チベットの教えは、大乗仏教の流れに属していて、ことあるごとに利他が強調されます。教えを聞く時には、かならず先生が「菩提心をおこし、利他の動機で聞いてください」とおっしゃいますし、どんなささいな善行をおこなった時も、必ず一切衆生のために廻向するように、と教えられます。利他こそがチベットの伝統でもっとも重要なことであるかのようです。

  でも、そこにも実は落とし穴があります。(その2)で触れた前行の教えは、利他からスタートしてはいません。一番最初の教えは「人身の得がたさ」、自分が今、人間として生まれて教えを受けていることが、いかに得がたい幸運であるかを理解すること、です。
 自分の大切さ、かけがえのなさを理解することと、利他の教えは、一見、矛盾しているように見えるかもしれません。

  しかし、他の衆生を輪廻の苦しみから救うためには、自分自身が輪廻の苦しみから抜け出す方法を知っていなければなりません。そもそも、自分が輪廻を苦と理解していなくては、「一切衆生を輪廻の苦しみから救う」というのは、単なる言葉だけのものになってしまいます。

  無知こそが苦しみの真の原因で、一番よく知っているはずの自分自身について、その価値やかけがえのなさを知らないことが、一番大きな、気づきやすい無知です。まずそれを取り除くことからはじめなければ、自分が苦しみから解放されることも、他を苦しみから解放することもできません。

  仏教の実践は「道」であり、順番を間違えてしまうと、目的地にたどりつくどころか、かえって迷路の中を延々とさまようことになってしまいます。そのため、前行のような階梯的な教えを、信頼する師の指導のもとで学ぶことが大切なのです。

  仏教の教えを広めようと、多くの方が熱心に活動されています。私自身、そういう方々の恩恵を蒙っていますが、熱心に教えを広めようとされている方の中には、この人は仏教を広めたいのだろうか、仏教についての自分の考えを広めたいのだろうか、と疑問を感じる方もないわけではありません。

  無我の教えを広めたい人と、無我の教えを学びたい人は、まったくタイプが別、と感じることすらあります。

  西洋の哲学において、「カントの哲学」について語ることは、実際には「カントの哲学についての自分の解釈」を語ることです。そこに問題はありません。しかし、仏教、無我の教えはそれとはまったく性格が違います。「無我についての私の解釈」は「無我」とはまったくの別物です。

  大乗の伝統で、智慧と慈悲が鳥の両翼、車の両輪にたとえられてきたのは、そのためです。智慧を欠いた慈悲は、「溺れている人が他の溺れている人を救おうとするようなもの」「目が不自由な人が他の不自由な人の道案内をしようとするようなもの」といわれます。

  伝統的に、仏教を説くことのできる資格について厳しくいわれてきたのは、このような理由があるからです。

  たとえ、自分では、「仏教を広めよう」という意欲にあふれていたとしても、それが「私の仏教の解釈」であれば、自分の考えを他人に押し付けているだけで、自分自身も、導こうとしている相手も、真の無我に到達することはできません。それどころか、知らず知らずの内に自分の「我」を増長させ、「自分がすぐれた救済者で、劣った衆生どもを救ってやるのだ」というきわめて危険な方向に進んでしまう可能性すらあります。

  薬は、用い方を誤まれば、毒にもなります。

  チベットの伝統でいう「心の本質」、仏性ともいいますが、それは言葉で説明することはできず、それが一切衆生にそなわっていることが完全にわかるのは仏陀になった時だ、といいます(如来蔵)。では、そうなら、なぜ、そのような教えを説く意味があるのか、チベットの僧院教育で重視されてきた『宝性論』は、その理由のひとつとして、菩提心をおこした者が、衆生を劣った者として見ることを防ぐため、ということを挙げています。

  「心の本質」をさとることは無我を理解することと同義ですから、「私の心の本質」をさとるわけではなく、「心の本質」がわかれば、一切衆生に「心の本質」が備わっていることが(程度の差はあれ)見えるようになってきます。

  一切衆生に「心の本質」がそなわっていることが見えて、はじめてその取り出し方がわかるようになる、それが仏教における真の利他の道、菩薩の実践です。
 
チベット文化研究所で「基礎からわかるチベット仏教入門」を開催します(4月14日より)
お問い合わせ・ご予約等はチベット文化研究所まで
09:00 仏教入門 | コメント(0) | トラックバック(0)

チベットの仏教についてのよくある誤解(その2)

2017/04/13
 チベットの伝統には、奥義とされるゾクチェンやマハームドラーと呼ばれる教えがあり、前行と呼ばれる段階と、本行と呼ばれる段階に分かれています。

  そうなると、前行は省略して、はやく本行を受けたい、と思うのが人情ですが、実はそこには落とし穴があります。
 前行の教えには、「人身の得がたさ」を理解することからはじまる四つの教え、帰依と菩提心、金剛薩埵の浄化法、マンダラ供養、師の智慧と一体になるグル・ヨーガの修行が含まれていますが、そこには仏陀の境地に至るための必要な教えがすべて含まれています。

  帰依と菩提心、罪を懺悔し浄化すること、功徳を積むこと、智慧を得ること以外に、仏教にするべきことはありません。実態からすれば、前行の教えは、「お徳用修行パック」というべきものなのです。
  チベット語でも前行はグンド=直訳すると前・行く ですが、もしかしたら、その重要性に自分で気づかせるために、わざとやる気がでないように前行という名前をつけたのでは、と思うことすらあります。

  では、前行と本行を分けるのは何か?

  ゾクチェンやマハームドラーは、「心の本質」の実践ですが、「心の本質」をわかっていない段階が前行で、「心の本質」をわかって実践するのが本行です。

  もしかしたら、前行をはじめようとする人の中には、「自分はもしかしたら、導きを受ければ直ちに「心の本質」を理解できるのでは。そんな自分が五十万回の前行をするのは、時間の無駄になってしまうのでは」と心配されている方もいらっしゃるかもしれません。
  でも、心配はいりません。(これはネタバラシになってしまうかもしれませんが)すべての前行の教えがそうなっているかどうかはわかりませんが、有名なある教えの体系の前行についていうと、修行法も唱えるお経も、もし修行者が「心の本質」をさとれば、修行法も唱えるお経の意味も、すべて本行の実践になるように作られています。ですから、回り道を経ることなく、「心の本質」をさとった段階で、ただちに本行にはいることができます。

  逆に、「心の本質」をまだ理解していない段階で本行の教えを受けたとしても、意味を正しく理解することは不可能ですし、実践することもできません。

  なぜなら、「心の本質」は言葉で説明することのできないもので、それをまださとっていない人がゾクチェンやマハームドラーの教えを聞いて、「心の本質」はこういうものだろうと想像しても、その「心の本質」のイメージは言葉で作られたものですから、それが言葉を超えた本当の「心の本質」に一致することは原理的にありえません。

  本行の実践法というのはありますが、それはすでに理解している「心の本質」にいかにとどまるか、という修行なので、まだ「心の本質」を知らない人がとどまり方を習って実践したとしても、時間の無駄にしかなりません。

  日本のチベット関係者のあいだでもゾクチェンは人気が高く、前行に対する本行の卓越性を強調される方もいますが、私は正直、疑問をもっています。

  私が受けた教えのなかである高僧は、「ゾクチェンの前行と本行で、重要なのは前行の方である」とはっきりおっしゃっていました。その方は、もうなくなられて今は生まれ変わりの少年が発見されていますが、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生だった方で、いくら日本の「ゾクチェン通」の方がゾクチェンに詳しいとしても、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生ほどでは、と思いますし、信じる・信じないはもちろん自由ですが、私はその方の教えに一切疑いを持っていません。

  「心の本質」は一切衆生にそなわっていますが、それは言葉で作られた概念(仏教語の「分別」)の層に厚くおおわれています。智慧を得る、とか功徳を積む、さとりを開く、という言い方をしますが、実際にはその分厚い層を削っていくのが仏教の勉強と修行で、それを最短距離でおこなうのが、前行の学習と実践なのです。
 
チベット文化研究所で「基礎からわかるチベット仏教入門」を開催します(4月14日より)
お問い合わせ・ご予約等はチベット文化研究所まで
09:00 仏教入門 | コメント(0) | トラックバック(0)
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