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やさしい心を育てる(1) 自分の大切さに気づく

2014/02/24

【子育てと仏教】
 仏教に対するイメージは人それぞれで、子育てと仏教の組み合わせについて、違和感を覚える人もいるでしょう。しかし、明治になって学校教育制度ができる前は、子供の教育は寺小屋―仏教のお寺などでおこなわれていました。
 仏教では、「慈悲」は仏教徒の義務のようなものではなく、あらゆる人のなかには自然なやさしさの種が備わっており、それを自分自身で見つけ、覆いを取り除けば、自然と美しい花が開く、と考えています。
 どんな親でも、自分の子がやさしい子供に育ってほしいと願わない親はいないでしょう。しかし、やさしい子供が育つには、その親がやさしい親である必要があります。それは必ずしも、欲しいものは何でも買ってあげて、絶対叱らない、ということではありません。怒ることと叱ることは、まったく違います。仏教の考えでは、怒りは煩悩で、自分自身の感情をコントロールできず、それに振り回され、相手にぶつけてしまうことです。相手のためを思って、よくないこと、危険なことを叱ることは、それとは違います。仏教には不動明王のような恐ろしい顔をした仏様がいらっしゃいます―安土桃山時代に日本を訪れた宣教師が誤解して、日本では悪魔崇拝がおこなわれていると報告した程です―が、不動明王は、怒っているのではなく、衆生の間違いを気づかせるために、あえて恐ろしい顔をしているのです。仏様というのは、一切の煩悩から離れ、どんな生き物に対しても無条件の慈悲を注いでいる存在です。不動明王の恐ろしさは、慈悲の現われです。
 子供が危険なことをしたり間違ったことをしているのに、それを放任したら、その子供自身に悪い結果が生じます。そうならないよう叱るのは、愛情です。しかし、子供にこうなってほしい、と自分の願望を投影し、子供が思い通りにならないからといって腹を立て、怒りをぶつけるのは、煩悩です。子供は怖がって行為を改めるかもしれませんが、それは親が怖いからであって、自分が間違っていたことに気づいて、自分の行為を改めようと思って、悪いことをしなくなったのではありません。
【やさしさと自分を肯定できること】
 やさしい親というのは、子供の存在を全肯定できる―子供がいい子供であろうとわるい子供であろうと、決して見捨てたり裁いたりすることのない、子供にその場にいていい、という安心感を与えてあげる存在です。恐怖で縛ることとは正反対です。
 それができるためには、その親自身が自分の存在を肯定している必要があります。しかしそれは、現代社会においては必ずしも容易なことではありません。なぜなら、現代社会は常に物を欲しがりつづけることによって発達した社会で、人は、常に満たされず、新しいものを欲しがりつづけるよう仕向けられているからです。
 真に満たされた感覚がないまま育ってしまうと、新しい自分の家庭―配偶者や自分の子供こそが自分の願望を満たしてくれる存在だと過剰に期待し、その通りにならないと、傷つき、腹を立て、暴力をふるってしまいます。それがDⅤ(家庭内暴力)や幼児虐待です。
【今の自分の幸運さに気づくことが仏教の出発点】
 意外に思う人もいるかもしれませんが、今の自分は実はきわめて幸運な状態にいるのだ、と気づくことが、仏教の出発点です。三帰依文には、「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし」とあります。
 どんなに貧しくても、病気がちだとしても、私たちがこうやって人間に生まれていることは、あらゆる生き物の中で例外的で、きわめてラッキーなことなのです。
もし魚に生まれたとしたら、何千と生まれた卵のなかで成魚まで育つのは一、二匹です。私は不幸だ、生きていても何ひとついいことはない、と考えている人でも、成人式に出てみたら、小学校の何百人かの同学年で、成人式を迎えたのは自分ひとりだった、とか、出身地の都市でひとりしかいなかった、ということはないでしょう。
 無数にいる蟻たちは、私たちが踏みつぶしたり、殺虫剤をかけたりしたら、何十、何百もが一度に死んでしまうような小さな存在です。でもそんな蟻でも、よく観察してみると、餌が落ちていたらそこに集まって必死にそれを運び、水が流れてきたら必死にそこから逃げようとします。苦しみを厭い、幸せを望むことは、私たちとまったく変わりません。そうやって考えていくと、当り前で、何の価値もないと思っていた私たちの生は、生き物の中できわめて例外的で、それを得る確率は、宝くじの一等があたるよりも低い、ということを認めざるをえません。
 自分が生きていることに何の意味もない、と考えている人が無常の教えを聞いたとしたら、すべてはむなしい、生きていてもしょうがない、と考えてしまうかもしれません。しかし、自分がこうやって人間として生きていることは、それだけで幸運で、得難いことだということが実感できた人が聞いたら、この好機は永遠に続くものではない、なんとかしてこの好機を生かしたい、と考えるでしょう。
 同じ教えでも受け取り方はまったく異なり、だからこそ、仏教ではどういう順番で学ぶかがとても重要で、その出発点になるのは、自分がこうやって人間として生きていることは極めて得難く、幸運なことなのだという「事実」を認識することです。
【覆いとしての無明】
 私たちがこの「事実」を認識することを妨げているのは、自分が得ているものには関心を向けず、持っていないものこそが価値があり、大切なものだと考えてしまう、間違った捉え方です。仏教ではそれを「無明(無知)」と呼びます。無明こそが、私たちが幸せを望み、誰も苦しみを望まないにもかかわらず、苦しみに陥ってしまう真の原因なのです。
 そのため、健康だけれど貧しい人は「自分はお金がないから不幸だ」と考えて自分の健康の価値には気づきません。何百億持っていて不治の病に冒されている人は、その健康が手に入るなら、何百億払っても惜しくはないと考えるのに、です。
 毎日学校に行く子供は、「毎日学校に行くのは嫌だ、学校のない世界に生まれたい」と考えるかもしれません。世界にはまだまだ貧しく、子供も働かなければならず、学校にやる余裕はないという地域も少なくありません。そういう子供は働きながら、毎日学校に通うことを夢見るでしょう。そうである限り、どんな状態になったとしても、どんなところに生まれても、常に不幸で、満たされることはありません。それが輪廻の苦です。

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