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やさしい心を育てる(3) 空を理解する—何のために・どうやって

2014/02/26
【空、無我と慈悲の教えの関係】
 仏教の空や無我の教えは、インドの他の宗教や、西洋社会において、虚無論とみなされてきました。なかでも一切が空であると説く中観派は、仏教内部からすら、虚無論と批判されることがありました。
 よく出される疑問として、「一切が空なら衆生も空であることになり、慈悲の教えと矛盾するのでは?」というものがあります。これは誤解です。私たちは他の人や生き物について、かわいそうという気持ちを持つことはありますが、自分自身の怪我や悩みであれば、ちょっとの傷でも耐え難かったり、夜も眠ることができなかったりするのに、他者の苦しみや痛みをそのように感じることはまずありません。無関心だったり、それが自分の敵であれば、「ざまぁみろ」と喜ぶことすらあります。
 他への慈悲の気持ちを妨げているのは、自分と他人を分け、自分を中心に捉える心のあり方、仏教でいう「我執」です。ですから実際には、空、無我の理解が深まれば深まるほど、他への慈悲の思いも強くなり、慈悲の思いが強ければ強いほど、空や無我の理解も容易になります。仏陀の境地を目指すことにおいて、空性(空であること)の理解と、一切衆生への偏りのない慈悲およびそれに基づく菩提心は、車の両輪のような関係にある、と言われます。
【「我思う、故に我有り」はなぜ問題か?】
 次によく出される疑問として、「どう考えても私はある、それを空、ないということには納得がいかない」というものがあります。デカルトは、「我思う、故に我有り」と言いました。すべての存在を疑うとしても、今それを考えている私が存在することは疑うことができない、したがって、私は存在する、と結論づけたのです。これにはどのような問題があるのでしょうか。
 まず、仏教が説いているのは、現に今こうやって考え、生きていると実感があるのに、それを否定して、私を無いもののように思い込みなさい、ということではありません。それでは虚無論になってしまいます。一切が空であると説く中観派の祖とされるインドのナーガールジュナ(龍樹)も、虚無論が道徳否定の間違った教えであるということを、仏教の中の実在論者との議論の前提としています。

「すべての過誤が生ずる根拠である無をともかくすでに排除しているとしたら、正理をもって有をも排除しなければならぬ。そこで汝はそれを聞け。」『六十頌如理論』

 では、仏教の無我や空の教えは本当はどういう意味で、「我思う、故に我有り」はどこに問題があるのでしょうか。
 無我や空の教えは実感とは相容れないため、それを人々に理解させることは容易ではありません。釈尊は巧みな比喩を用いられ、私たちの心の働きの問題点を、誰もが納得いくように示されています。それは「群盲象を撫でる」という喩えです。「ある王様が象を飼っていて、それを目の不自由な人たちに触らせませした。頭を触った人は「象は甕のようなものだ」、鼻を触った人は長い「轅のようなものだ」、耳を触った人は「笊のようなものだ」、足を触った人は「柱のようなものだ」と言い出し、「私が正しい、お前は間違っている」と喧嘩になってしまいました」。
 これは直接には、インドの他の宗教家たちの問題点についての喩えです。彼らは思索や瞑想などによって宗教体験をし、これこそが真理だ、これが悟りだ、と考え、「私は真理を悟っている。お前は間違っている」と論争していました。それに対して釈尊は、そういう形で語られるものは真理ではないし、そのような議論は苦しみからの解放に役立たない、と退けられたのです(中村元編『原始仏典』筑摩書房、参照)。
 象の頭を触って、それが固くて大きく、甕のようだと感じることは、間違いではありません。しかしだからといって、「象は甕のようなものだ」と結論づけたら、見当違いですよね? 宗教家たちが何らかの神秘的な体験をしたのは本当だったのでしょう。彼らの間違いは、そこから「これこそが真理だ」という結論を導き出したことにありました。
 これは、宗教家だけでなく、私たちの日常の考え方にも当てはまります。私たちは、ある人に嫌なことをされたら、「嫌な奴だ」と認識し、次に顔を合わせたら顔を見ただけで、あるいはその人のことが頭に浮かんだだけでも、とても嫌な気持ちになります。私たちはそれを、その人が嫌な奴だからだ、と考えます。でもそれは、象の頭を触って甕のように感じた、だから象は甕のようなものだ、と言っているのとまったく同じです。仏教が、無明が苦を作り出す、と説くのは、こういう心の働きのことを言っているのです。「我思う」と「我有り」についても同様です。
【空、無我を理解する方法】
 ですから、苦しみからの解決方法、真の悟りは、自分の間違いに気づくこと、それ以外にありません。象の頭を触って甕のようだと感じることは間違いではないこと、しかしそこから「象は甕のようなものだ」と結論を出すのは間違いだと気づくこと、これが仏教の二諦(二つの真理。世俗諦=相対的な真理と勝義諦=究極の真理)です。
 それは一言で言えば、物事を正しく見るということで、象の頭を触って固くて大きいという感触を味わっているのに、象などどこにもいないと思い込むこと(虚無論)とはまったく違います。
 仏教できわめて危険なのは、空や無我という言葉を知ることが、仏教をわかることだと思ってしまうことです。空や無我について本を読んで沢山の知識を持つことと、空や無我を理解することは、まったく違います(空論者は救いがたいと『中論』十二章でも説かれています)。
 釈尊は、先程のような状況のなかで、「これこれが真理だ」と主張すること(分類して六十二見と言われ、大別すると実在論=有の立場か虚無論=無の立場のいずれかになります)は苦しみからの解放の役に立たない(私が説く教えではない)と言い、苦しみからの解放に役立つ教え、私が説く教えとして、苦しみと苦しみの原因と苦しみを滅した境地とそれに至る実践の四つの真理(四聖諦)や、無明から、生まれ、老い死ぬという苦しみに至る十二の段階(十二支縁起)について説かれました。
 しかし、四聖諦や十二支縁起について知識を持つことと、それを真に理解することとは、まったく違います。釈尊は十二支縁起を理解することは難しいと繰り返し説き、「私にはやさしく感じられる」と言った弟子のアーナンダ(阿難)に対して、十二支縁起は深遠であり、それを理解していないゆえに人々は苦しみにあるのだ、という説き方をされました。もしアーナンダが苦しみを味わっているのであれば、自分の理解が間違っていることに気づくでしょう。自分自身で気づくことを促すこと、それが釈尊の教え方なのです。子供を亡くして狂乱している母親(クリシャゴータミー)に、死者を出したことのない家から芥子粒を貰ってきなさい、と説いたのも同じ教え方です。
 ナーガールジュナの『中論』が分かりにくいのは、空について説明した書ではなく、読み手が自分の間違った考えに気づくこと、空を真に理解することを目指した、導きの書だからです。釈尊の教えについて豊富な知識を持ち、それを理論化することが教えを理解することだと思っている者たちに対して、ナーガールジュナはその思い込みをひとつひとつ打ち壊していき、では真理とはどのようなもので、それにどのように到達するのかと聞き返されて、答えた章とされるのが十八章です(チャンドラキールティの解釈による)。そこでナーガールジュナは、「(五)蘊が私か、(五)蘊を離れた私があるか」考えなさい、と説きます。私の体はある、私は感じている、私は考えている、だから私は有るのだ(「我思う、故に我有り」)と信じて疑っていなかったのに、いざ探してみるとどこにも「私」を見つけ出すことができない、それに自分自身が気づいた時、それが本当の悟りであり真理であるのです。

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