▶ admin  

やさしい心を育てる(2) 慈悲の心と自分の幸せ

2014/02/25
【仏教は無我思想か?】
 仏教は無我の思想だとよく言われますが、これは誤解を招きやすい言い方だと思います。伝統的な仏教理解では、釈尊は一律の教義を説いたのではなく、相手に合わせて異なる教えを説いたとされています。ナーガールジュナ(龍樹)も『中論』の中で「もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている」(18章6偈)と述べています。
 これは場当たり的に適当なことを述べるというのではありません。仏教は、「私」を手がかりとして私を越えていく、巧みな方便を用いる教えなのです。
【利他の心で自分が幸せになる】
 チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ法王は、教えを説く際に、まず、人生の目的は幸せになることで、宗教は幸せを獲得する手段のひとつだと言われます。
 では、仏教では、どのようにして幸せを実現していくのでしょうか。
 仏教では慈悲や利他の心を説きますが、人によっては、それでは幸せになるのは他の人や生き物で、自分は幸せにならないのでは、と思われるかもしれません。あるいは、仏教は「無我」の教えだから、自分を捨てなければならないのだ、と。法王は、ご自身の経験からも、それは間違いだと断言されます。

「あわれみや慈しみの心を育むのは、他人のために行う、世界に対する捧げ物、という印象を受ける場合が往々にしてあります。ですが、それでは表面的にしかとらえていません。自分で体験して感じたのですが、あわれみを実践すると、他人に対してではなく自分に対して直接のプラスとなるのです。自分自身には100パーセントのプラスになりますが、他人にはその半分でしょう。ですから、あわれみを実践する主な理由は、自己の利益のためなのです。」『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』アーティストハウス

 仏教の慈悲の心が自分にとって100パーセントプラスになるというのは、次のようなメカニズムによってです。
 仏教を信じようと信じまいと、慈悲の心を持とうと持つまいと、その人に不幸や困難が訪れることはあります。私たちは関係の中で生きている以上、それを逃れることはできません。その時、もしその人が自分のことだけを考え、自分の利益のみを追求している人だったら、その不幸は、すべてを奪い去るものとして感じられるでしょう。もうこれ以上生きていても無駄だと考えるかもしれません。それに対して、慈悲の心を持ち、利他を考える人にとっては、まったく同じ不幸や困難が訪れたとしても、それは自分の問題関心のごく一部でしかありません。ちょうど、底の浅い船は少しの波でひっくり返ってしまうのに対して、底の深い船は大波が来ても転覆しないようなものです。

「自分のことだけを考えているときには、現実を見る焦点は狭まり、そのために不愉快な物事が大きく映り、恐怖や不快やみじめさに打ちのめされたようになります。ところが、他人を気づかって思いやれば、視野は広くなります。広くなったものの見方の範囲内では、自分自身の問題はそれほど重要でないように映ります。これが大きな効果を生み出すのです。他者を思いやる感覚を持てば、自分自身の難局や問題にかかわらず、その人は一種の精神的な強さを示すことでしょう。精神的に強くなると、自分の問題の重要性は薄れ、厄介なものではなくなります。自分自身の問題を超越して進み、他の人を大事にすることによって人は精神的強さや自信、勇気、安定感を得るのです。」『思いやりのある生活』光文社知恵の森文庫

 ダライ・ラマ法王が、教えの質疑の時間に、不幸な境遇を訴える人に対して、「視野を広く持つと効果があるかもしれません」と勧められるのは、このためです。
【利他の心の手がかりは、幸せになりたい自分の気持ち】
 では、どのようにして他に対する慈悲の心を養っていくのでしょうか。
 ダライ・ラマ法王はよく、幸せを望み苦しみを望まないことは、自分も衆生も変わりがない、と説かれます。幸せになりたいという自分と同じ思いが衆生にあることを認めるのが、仏教の慈悲の心です。

「他の人を気にかける感覚を伸ばすときに土台となるものがあります。意外に思われるでしょうが、自分自身を愛せる能力が基礎となるのです。自分自身への愛情は、何も自分に恩義があるので生れるのではありません。それどころか、自分を愛せる能力の根底にある事実は、人はみな本来、幸福を願い、苦難を避けたいと思っていることです。幸せになり、苦しみを避けたい欲求がなければ、自分を大事にすることはないでしょう。この事実にいったん気づけば、愛情をその他の有情の生き物に広げることができます。」『思いやりのある生活』

 実際に他に対する慈悲の思いを心の中に生じさせ、それを一切衆生に広げていく時に手がかりとなるのも、自分が愛されたという思いです。それは「一切衆生を前世で母であったと考え、その恩に報いる」という教えですが、チベット特有のものではなく、日本仏教の伝統(例えば『歎異抄』)においても説かれていたことです。

「一般的に仏教修行に携わる前は、目的や恩恵に目が向きます。あたりまえの話です。その段階を抜かして、ただあわれみを育めと言われても、たいていの場合、たいして中身のない人為的なものを育む結果になってしまいます。たとえば、あわれみを育むための昔ながらの仏教の方法では、有情のものひとつひとつが自分の母親であるかのような観点を作り出します。……なぜするのでしょう? それは、あらゆるものを自分の母親と見ることで、情愛、慈しみ、やさしさ、好意、感謝などの意識が生まれるからです。行動に移す理由が理解できれば、あらゆる有情のものが実は自分の母親かどうか確信できなくても、目的を見据えて恩恵を期待しながら、足を踏み出せるのです。」『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』

 この教えの核心は、自分が愛情を注がれた記憶を呼び覚ますことが、その相手に対する自然な愛情を蘇らせことにあります。仏教はその自然な思いを、一切衆生に広げていくのです。義務として利他や自分を捨てることを強いるのではありません。
【現代社会に活かす際の注意点】
 とはいえ、これを現代社会において実践する上では、注意すべきことがあります。それは幼児虐待の問題です。母親から虐待された人に、一切衆生を母親と思えというのは逆効果です。しかしこの教えの本当のポイントは、相手が母親かどうかではなく、愛情を受けたことを思い出すことにあります。虐待をしてしまう親は実は自分も虐待を受けていた、ということがよく言われます。愛されなかったという思いが、他への愛情を阻害するのです。しかし、人間は生まれ落ちた時点では、一人で生きていくことはできません。親に十分愛されなかった人でも、誰かしら手を差し伸べた人がいたはずです。その人の愛を思い出すこと、それが鍵なのです(実践においては、ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』講談社12章を参考にされることをお勧めします)。
 私の幸せを妨げているのは、私だけにこだわる視野の狭さです。それを広げることができるのが慈悲の心で、それを育むためには、自分が愛情を受けたことを思い出して相手への自然な愛情を呼びさまし、それを広く一切衆生に向けていくことが必要です。
 日本でもチベットでも、伝統的な仏教の実践階梯の最初の教えは、「人間として生まれたことの貴さの自覚」です。仏教の実践はここから始ます。

ダライ・ラマ実践の書ダライ・ラマ実践の書
(2010/01)
ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ

商品詳細を見る


人間はひとりで生きられない (学研M文庫)人間はひとりで生きられない (学研M文庫)
(2012/09/11)
ダライラマ十四世

商品詳細を見る
関連記事
09:00 仏教入門 | コメント(0) | トラックバック(0)
コメント

管理者のみに表示