ラムキェン・ギャルポ・リンポチェの般若心経講義(2日目)
2013/07/14
6/22、先週に引き続いて、チベット仏教ディクン・カギュー派の高僧ラムキェン・ギャルポ・リンポチェによる般若心経の解説がおこなわれました(於、大本山護国寺大師堂)。
天候にもめぐまれ、開けた扉から吹き込んでくる風が心地よく、またそこから見える外の木々の緑も美しく、せわしない東京にいることを忘れるほどでした。
『般若心経』の内容は、釈尊の瞑想の境地を観自在菩薩(観音さま)が理解して、舎利子(シャーリプトラ。釈尊の高弟)に説明しているもので、インドからチベットに伝えられた伝統では、仏教修行の五段階(五道:資糧道・加行道・見道・修道・無学道)に配当して説明します。
(→テキストダウンロードはこちら)
(以下は手元のメモに基づくもので、不正確な箇所があるかもしれませんが)
前回解説のあった「舎利子よ、・・・受と想と行と識なども空である」は(まだ凡夫の段階である)資糧道と加行道についての教えで、「舎利子よ、そのように一切法は空性で、相が無く、生じること無く、滅すること無く、垢が無く、垢を離れることもなく、減ることもなく、増えることもない」が、空性を直接体験する見道に相当します。①一切法は空、②相が無く、③生じること無く、④滅することなく、⑤垢が無く、⑥垢を離れることもなく、⑦減ることもなく、⑧増えることもないが、甚深なる空の8つの性質で、三解脱門(空・無相・無願)に対応しています(①=空門、②~⑥=無相門、⑦⑧=無願門)。そのうち、「減ることも無く、増えることも無い」というのは、如来蔵について説いているということでした。

「舎利子よ、それゆえに空性において色は無く、・・・」は修道で、(空を直接体験している)瞑想の境地においては、一切あらわれのないことを示していますが、解説は、私たち教えを受ける側のレベルを考慮されておこなわれました。たとえば、五蘊についてひとつひとつ考えて、「色は無く・・・」の理解にいたることができると、執着が無くなり、煩悩や我執の薫習が除かれ、輪廻から解き放たれるのであり、「無明が無く・・・」と十二支縁起が空であることを説いている箇所についても、私たち凡夫にとっては、無明があるがゆえに生・老死の苦しみがあるのという順観の説明をなさったうえで、ここではそれらも実体ではなく空であることが説かれている、と説明されました。
「智慧も無く」というのは、般若の智慧も実体ではないこと、「得ることも無く、得ないことも無い」は、有(実在論)と無(虚無論)の二辺(極端)から離れていることで、一切の辺を離れた一味の境地にとどまっていることを示しており、「得る」という期待もなく、「得ない」という恐れもないというのは、三解脱門の無願門に相当します。
「舎利子よ、それゆえ・・・顛倒より完全に離れ、涅槃を究竟している」は、主体/客体(能取所取)という「顛倒」から完全に解き放たれた時に、仏陀の境地に至ることを説いています。
「三世に住される一切諸仏もまた、この般若波羅蜜に依って、無上正等覚を現等覚される」は、これまでの内容の要約です。
その後の般若波羅蜜多呪を説く箇所は、言葉による説明を必要とせず、一句で悟るような高次の菩薩に対する教えで、「それゆえに、般若波羅蜜多呪(は)・・・」の「それゆえに」というのは、これまでの説明を指しています。「偽りでなく真実であると知るべきで」とあるのは、この真言(呪)が法身から自ずと生じたものであるためです。
(チベット語では)「タヤター・オン・ガテガテ・パーラガテ・パーラサンガテ・ボディ・ソヮーハー」の最初の「ガテガテ」は資糧道と加行道、「パーラガテ」は見道、「パーラサンガテ」は修道、「ボディ」は果としての菩提(さとり)の境地である無学道を表わしています。
(チベットで用いられている大本ではこの後)観自在菩薩の締めくくりの言葉と、釈尊が瞑想からおきられて(ただし、それは凡夫から見た姿で、実際の釈尊には瞑想中と瞑想後の違いがないという説明が、前回ありました)、観自在菩薩の説明を「よきかな(善哉)」とほめたたえて承認し(それによって観自在菩薩が説いた言葉ではあるが、仏陀の教えとして承認され)、集まっている聴衆が喜んで、経典は終わります。
舎利子の形容として用いられている(通常「長老」と訳される)「ツェタンデンパ」(具寿とも訳す)は、直訳すると「命を持つ者」という意味で、ここで教えを聞くことで、生まれたことに意味ある者となったという意味だという説明がありました。
チベットの習慣では、般若心経を唱えたあと、手をうって除障法(ドクパ)をおこなうことが多いのですが、これについても簡単な説明があり、帝釈天がこれを3回読んだだけで魔の障害をおさえたことに由来するもので、それで3回拍手する、ということでした。

その後の質疑応答も活発で、最後に、この教えを聞いた功徳によって、一時的な利益としては、日本の地震などの災害が鎮まり、究極的な利益としては、一切衆生が仏陀の境地に至るように願って廻向するように、という教えがあり、廻向の祈りが唱えられて、教えは終わりました。
ダライ・ラマ法王が東日本大震災の四十九日法要で般若心経を唱えられた護国寺で、このインドからチベットに伝えられた般若心経解釈に基づいた解説がおこなわれたことは、とても意義深いことだと思います。

天候にもめぐまれ、開けた扉から吹き込んでくる風が心地よく、またそこから見える外の木々の緑も美しく、せわしない東京にいることを忘れるほどでした。
『般若心経』の内容は、釈尊の瞑想の境地を観自在菩薩(観音さま)が理解して、舎利子(シャーリプトラ。釈尊の高弟)に説明しているもので、インドからチベットに伝えられた伝統では、仏教修行の五段階(五道:資糧道・加行道・見道・修道・無学道)に配当して説明します。
(→テキストダウンロードはこちら)
(以下は手元のメモに基づくもので、不正確な箇所があるかもしれませんが)
前回解説のあった「舎利子よ、・・・受と想と行と識なども空である」は(まだ凡夫の段階である)資糧道と加行道についての教えで、「舎利子よ、そのように一切法は空性で、相が無く、生じること無く、滅すること無く、垢が無く、垢を離れることもなく、減ることもなく、増えることもない」が、空性を直接体験する見道に相当します。①一切法は空、②相が無く、③生じること無く、④滅することなく、⑤垢が無く、⑥垢を離れることもなく、⑦減ることもなく、⑧増えることもないが、甚深なる空の8つの性質で、三解脱門(空・無相・無願)に対応しています(①=空門、②~⑥=無相門、⑦⑧=無願門)。そのうち、「減ることも無く、増えることも無い」というのは、如来蔵について説いているということでした。

「舎利子よ、それゆえに空性において色は無く、・・・」は修道で、(空を直接体験している)瞑想の境地においては、一切あらわれのないことを示していますが、解説は、私たち教えを受ける側のレベルを考慮されておこなわれました。たとえば、五蘊についてひとつひとつ考えて、「色は無く・・・」の理解にいたることができると、執着が無くなり、煩悩や我執の薫習が除かれ、輪廻から解き放たれるのであり、「無明が無く・・・」と十二支縁起が空であることを説いている箇所についても、私たち凡夫にとっては、無明があるがゆえに生・老死の苦しみがあるのという順観の説明をなさったうえで、ここではそれらも実体ではなく空であることが説かれている、と説明されました。
「智慧も無く」というのは、般若の智慧も実体ではないこと、「得ることも無く、得ないことも無い」は、有(実在論)と無(虚無論)の二辺(極端)から離れていることで、一切の辺を離れた一味の境地にとどまっていることを示しており、「得る」という期待もなく、「得ない」という恐れもないというのは、三解脱門の無願門に相当します。

「舎利子よ、それゆえ・・・顛倒より完全に離れ、涅槃を究竟している」は、主体/客体(能取所取)という「顛倒」から完全に解き放たれた時に、仏陀の境地に至ることを説いています。
「三世に住される一切諸仏もまた、この般若波羅蜜に依って、無上正等覚を現等覚される」は、これまでの内容の要約です。
その後の般若波羅蜜多呪を説く箇所は、言葉による説明を必要とせず、一句で悟るような高次の菩薩に対する教えで、「それゆえに、般若波羅蜜多呪(は)・・・」の「それゆえに」というのは、これまでの説明を指しています。「偽りでなく真実であると知るべきで」とあるのは、この真言(呪)が法身から自ずと生じたものであるためです。

(チベット語では)「タヤター・オン・ガテガテ・パーラガテ・パーラサンガテ・ボディ・ソヮーハー」の最初の「ガテガテ」は資糧道と加行道、「パーラガテ」は見道、「パーラサンガテ」は修道、「ボディ」は果としての菩提(さとり)の境地である無学道を表わしています。
(チベットで用いられている大本ではこの後)観自在菩薩の締めくくりの言葉と、釈尊が瞑想からおきられて(ただし、それは凡夫から見た姿で、実際の釈尊には瞑想中と瞑想後の違いがないという説明が、前回ありました)、観自在菩薩の説明を「よきかな(善哉)」とほめたたえて承認し(それによって観自在菩薩が説いた言葉ではあるが、仏陀の教えとして承認され)、集まっている聴衆が喜んで、経典は終わります。
舎利子の形容として用いられている(通常「長老」と訳される)「ツェタンデンパ」(具寿とも訳す)は、直訳すると「命を持つ者」という意味で、ここで教えを聞くことで、生まれたことに意味ある者となったという意味だという説明がありました。
チベットの習慣では、般若心経を唱えたあと、手をうって除障法(ドクパ)をおこなうことが多いのですが、これについても簡単な説明があり、帝釈天がこれを3回読んだだけで魔の障害をおさえたことに由来するもので、それで3回拍手する、ということでした。

その後の質疑応答も活発で、最後に、この教えを聞いた功徳によって、一時的な利益としては、日本の地震などの災害が鎮まり、究極的な利益としては、一切衆生が仏陀の境地に至るように願って廻向するように、という教えがあり、廻向の祈りが唱えられて、教えは終わりました。
ダライ・ラマ法王が東日本大震災の四十九日法要で般若心経を唱えられた護国寺で、このインドからチベットに伝えられた般若心経解釈に基づいた解説がおこなわれたことは、とても意義深いことだと思います。
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何度も聞いているのですが、「空であったら生じるはずがないですよね?そして滅することがないというよりも妨げられることがないと訳したほうがいいかもしれません」の意味がわかりません。それ自身の力によって生じることがない、何か原因があって生じるのである。それが妨げられるのは何かそれ自身に問題があって妨げられるのではない、何か原因が他にあって妨げられるのである、という意味でしょうか??
まず、リンポチェの教えにもありましたように、『般若心経』の内容は、お釈迦さまの覚りの境地の説明なので、それを理解するためには実際に順を追って修行していく必要があります。説明を聞いただけで理解できるようなものではありません。
また、「滅することがないというよりも妨げられることがないと訳したほうがいいかもしれません」というのは、たしか、リンポチェのお言葉ではなく、通訳の方が付け加えられたものだったと思います。
『般若心経』の「諸法空相、不生、不滅」のところは、チベット語で「チュー・タムチェー・トンパ・ニー・テ、ツェンニ・メーパ、マ・キェーパ、マ・ガクパ」とあり、当日の資料では、日本で用いられているものとの対応関係がわかるよう、「滅することなく」と訳してあったのですが、チベット語の「マ・ガクパ」という言葉は「妨げられることがない」と訳した方がいい、とおっしゃったのです。
仏教では、世俗諦においては、生じ、滅するが、勝義諦においては、不生不滅であると説きます。これは別々のことを説いているのではなく(だから「色即是空、空是即色」と言うことができるのですが)、概念的な把握においては、何かが生じたり、滅したりすると捉えられるのに対して、概念を超えた境地においては、AとかBという対象的な把握がありませんから、AがBになる、とかBがAになるという言い方自体が成り立たず、生じる とか 滅する という言い方ができません。
重要なのは、世俗諦が車が動いている状態、勝義諦が車が止まっている状態、といったような別々の状態のことを言っているのではなく、むしろ同じ状態の捉え方の違い、というべきものだということです。
修行中であれば、対象を概念的に捉える瞑想していない時と、何も捉えることがない空の境地の瞑想中(もちろんこれは初心者レベルの修行ではありませんが)に対応します。