▶ admin  

チベットの仏教についてのよくある誤解(その2)

2017/04/13
 チベットの伝統には、奥義とされるゾクチェンやマハームドラーと呼ばれる教えがあり、前行と呼ばれる段階と、本行と呼ばれる段階に分かれています。

  そうなると、前行は省略して、はやく本行を受けたい、と思うのが人情ですが、実はそこには落とし穴があります。
 前行の教えには、「人身の得がたさ」を理解することからはじまる四つの教え、帰依と菩提心、金剛薩埵の浄化法、マンダラ供養、師の智慧と一体になるグル・ヨーガの修行が含まれていますが、そこには仏陀の境地に至るための必要な教えがすべて含まれています。

  帰依と菩提心、罪を懺悔し浄化すること、功徳を積むこと、智慧を得ること以外に、仏教にするべきことはありません。実態からすれば、前行の教えは、「お徳用修行パック」というべきものなのです。
  チベット語でも前行はグンド=直訳すると前・行く ですが、もしかしたら、その重要性に自分で気づかせるために、わざとやる気がでないように前行という名前をつけたのでは、と思うことすらあります。

  では、前行と本行を分けるのは何か?

  ゾクチェンやマハームドラーは、「心の本質」の実践ですが、「心の本質」をわかっていない段階が前行で、「心の本質」をわかって実践するのが本行です。

  もしかしたら、前行をはじめようとする人の中には、「自分はもしかしたら、導きを受ければ直ちに「心の本質」を理解できるのでは。そんな自分が五十万回の前行をするのは、時間の無駄になってしまうのでは」と心配されている方もいらっしゃるかもしれません。
  でも、心配はいりません。(これはネタバラシになってしまうかもしれませんが)すべての前行の教えがそうなっているかどうかはわかりませんが、有名なある教えの体系の前行についていうと、修行法も唱えるお経も、もし修行者が「心の本質」をさとれば、修行法も唱えるお経の意味も、すべて本行の実践になるように作られています。ですから、回り道を経ることなく、「心の本質」をさとった段階で、ただちに本行にはいることができます。

  逆に、「心の本質」をまだ理解していない段階で本行の教えを受けたとしても、意味を正しく理解することは不可能ですし、実践することもできません。

  なぜなら、「心の本質」は言葉で説明することのできないもので、それをまださとっていない人がゾクチェンやマハームドラーの教えを聞いて、「心の本質」はこういうものだろうと想像しても、その「心の本質」のイメージは言葉で作られたものですから、それが言葉を超えた本当の「心の本質」に一致することは原理的にありえません。

  本行の実践法というのはありますが、それはすでに理解している「心の本質」にいかにとどまるか、という修行なので、まだ「心の本質」を知らない人がとどまり方を習って実践したとしても、時間の無駄にしかなりません。

  日本のチベット関係者のあいだでもゾクチェンは人気が高く、前行に対する本行の卓越性を強調される方もいますが、私は正直、疑問をもっています。

  私が受けた教えのなかである高僧は、「ゾクチェンの前行と本行で、重要なのは前行の方である」とはっきりおっしゃっていました。その方は、もうなくなられて今は生まれ変わりの少年が発見されていますが、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生だった方で、いくら日本の「ゾクチェン通」の方がゾクチェンに詳しいとしても、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生ほどでは、と思いますし、信じる・信じないはもちろん自由ですが、私はその方の教えに一切疑いを持っていません。

  「心の本質」は一切衆生にそなわっていますが、それは言葉で作られた概念(仏教語の「分別」)の層に厚くおおわれています。智慧を得る、とか功徳を積む、さとりを開く、という言い方をしますが、実際にはその分厚い層を削っていくのが仏教の勉強と修行で、それを最短距離でおこなうのが、前行の学習と実践なのです。
 
チベット文化研究所で「基礎からわかるチベット仏教入門」を開催します(4月14日より)
お問い合わせ・ご予約等はチベット文化研究所まで
09:00 仏教入門 | コメント(0) | トラックバック(0)
 | HOME |