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ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』講義(二日目)

2016/06/06
二日連続して教えを受けて、ダライ・ラマ法王が常々おっしゃっている「ナーランダー僧院の伝統」ということが、すこし実感できたように思います。
ダライ・ラマ法王はナーガールジュナの仏教理解を完全にご自分のものにされていて、シャーンティデーヴァも同じ仏教理解に基づき、それをさらに実践的に詳しく説かれたものとして、『入菩薩行論』の内容を理解され、解説されています。
(昨日のまとめでは省略しましたが)昨日の教えで、法王は『中論』十八章、二四章だけでなく、ナーガールジュナ『友人への手紙(勧誡王頌)』の次の偈を引用されていました。

「真理(法)をさとった人びとといえども、天から降りてきたのでもなく、穀物のように地のなかから現出したのでもありません。彼らは煩悩に依存した愚か者の以前の状態を捨て去ったとき(あらわれるのです)。」116偈

苦しみをなくしたい、仏陀の境地を得たいという時に、単になくしたい、得たいと祈っているだけでは何にもならず、何が苦しみの原因か、何が仏陀の境地の因なのかを知り、実践しなければなりません。
このように、理論的な考えにもとづいて考察をおこない、実践していくことが、ナーランダーの伝統の特色です。

(昨日の『中論』十八章の引用で説かれていたように)苦しみの原因は、対象をその通りの実体があると捉える、間違った捉え方で、それに基づいて煩悩が生じ、悪しきおこないをなします。ですから苦しみは空性を理解する智慧を得ること(「空によって」あるいは「空の中に」)によってなくなりますが、空性を実際に体験するためには、対象をよく分析して、対象にそう見えるような実体がないことを確信し、その境地に一点集中の瞑想をおこなう必要があります。
今日、解説されたのは『入菩薩行論』四章~六章、(今回の解説では言及がありませんでしたが)チベットの有名なパトゥル・リンポチェの「宝の如き最高の菩提心、生じていないものには生じますように、生じたならば衰えることなく、ますます増大しますように」に重ね合わせた説明では、おこした菩提心が衰えることを防ぐための章とされている箇所で、
まだ空性を理解することによって煩悩を根本から断ち切ることはできず、怒りの有害性や、それをなくすことによって得られる利益をよく考えることによって、怒りを遠ざけ、煩悩の力を弱めていく段階にあたります。

今日の教えは、仏教の概説からはじまりました。

初転法輪の四聖諦(苦・集・滅・道)は、パーリ仏典に説かれ、仏教の基本となっています。
第二転法輪(無相法輪)と第三転法輪(分別法輪)の教えは、サンスクリット仏典に説かれ、滅諦と道諦について詳しく説かれています。
(釈尊は四聖諦を三通り説き方で説かれ(三転十二行相)、その二番目の
「苦しみを知りなさい。その原因(集)を滅しなさい。滅した境地を得なさい。道を実践しなさい」
に沿って教えがおこなわれました。)

苦しみには、苦苦(肉体的・精神的普通。私たちが通常考える苦しみ)・(粗い楽が苦に変質するという)壊苦・(すべてのものは苦の本質をもつという)行苦の3種類があり、苦苦は動物でも理解でき、壊苦は第四禅以上の非仏教の境地でも滅することができるもので、釈尊が「苦を知りなさい」と説かれたのは、主に行苦のことです。
その原因の根本は煩悩であり、煩悩は無明から生じているので、苦をなくすためには無明を晴らす必要があります。そのための実践道があり、それを実践してはじめて涅槃に至ることができるのです。
パーリ仏典には、四聖諦それぞれの4つの性質(四諦十六行相)が詳しく説かれています。
・苦諦:無常・苦・無我・空
・集諦:因・集・生・縁
・滅諦:滅・静・妙・離
・道諦:道・如・行・出

見解からいえば、仏教は
・一切皆空
・諸行無常
・諸法無我
・涅槃寂静
の四法印をそなえているのが仏教で、声聞乗の一部の「我」を認める学派は、見解に基づく仏教徒とはいえません。

仏陀の境地に至る実践は、三十七道品で、
・四念住(身念住・受念住・心念住・法念住)
・四正断(生じた悪を滅する・生じていない悪を生じないようにする・生じていない善を生じさせる・生じた善を増大させる)
・四神足
・五根
・五力
・七覚支
・八正道
これらを実践して正しいさとりに至ります。
 菩薩乗では、菩提心をおこし、空と結びつけて実践することで、仏陀の境地を目指します。

今日の『入菩薩行論』の解説は、三章の終わりの、毎日の菩提心生起のなかで唱える部分からはじまり、
四章(不放逸)では、煩悩の過失から心を守ることが説かれ、
五章(正知の守護)では、そのために注意深さ(憶念)と警戒心(正知)を結び合わせ、自分の身口意を見守ることが説かれています。この憶念と正知に初心者の段階から慣れ親しんでおくと、本格的な三学(戒・定・慧)の実践をおこなう際に、禅定(精神集中の修行。非仏教と共通)に役立つということでした。

また、五章30偈の「貫主(チベット語ではケンポ)が説いた教えによって」に関連して、正しい師と間違った師を見極めることの重要性が説かれ、正体を隠して女主人の使用人になっていた、というパトゥル・リンポチェのエピソードが紹介されました。ラムリムに、ラマの10の資格が説かれているそうです。

人間社会は欲望にまみれた社会であり、(自分が懺悔する際には、自分と悪いおこないを分離しているように)悪をなした人に対して、その人が悪いのではなく、煩悩が悪いのだと捉えることが重要であり(56偈)、このことは六章に詳しく説かれています。私たちは体、食物、住処など、肉体レベルの幸せを求めますが、59偈以降で、体に対する執着の対治が説かれています。

(会場で配られた日本語訳とは解釈が違うように思いますが)78偈では、逆境を道に変えることが説かれ、(これはダライ・ラマ法王が一般講演の質疑応答でよくアドバイスされることですが)ひどい状態を一つの角度から見るのではなく、様々な角度から見ることの重要性を話され、亡命によって世界中に友人ができ、ナーランダーの遺産を共有し、科学者との対話もできたというご自身の体験を話されました。

83偈では、六波羅蜜が布施・持戒…の順に、後のものほどすぐれた行で、その順に実践をおこない、小さなもののために大きなものを捨ててはならないということが説かれました。

六章(忍耐)では、怒りの過失を考え、忍耐の利益を考えることが説かれ、それによって忍耐の行を進めることができるようになります。19偈の「賢者は、苦しみが生じようとも、その心の純粋さは汚されない」に関連して、ご自身が(これはブッダガヤでカーラチャクラ灌頂が予定されていた時の話で、現場は大混乱でしたが)仏跡巡礼に行かれて体調を崩され(腸に穴があいていたそうです)、病院に運ばれる途中、貧しい子供や老人の姿を目にされ、激痛ではあったものの、彼らへの強い思いでさほど苦には感じられなかった、という体験を話されました(このエピソードは『素顔のダライ・ラマ』に詳しい)。

87偈以降が六章の後半部にあたり、私たちは敵がひどい目にあうと喜びを感じるが、それは自分を苦しめる因にしかならず、敵は自分を高める機会を与えてくれる恩深い存在であり、私たちは衆生と仏陀に依存してさとりを得るのであり(仏陀が教えを説かなければ、仏陀の境地を目指すことはなく、同様に衆生がいなければ、一切衆生のために仏陀の境地を目指すということが成り立たない)、その意味で仏陀と衆生は同じくありがたい存在であることが説かれています。

(昨日の教えのなかでたしか触れられていたように思いますが、「世間のあらゆる楽、それらすべては他者に楽を望むことで生じ、世間のあらゆる苦、それらすべては自分に楽を望むことで生じる」(八章129偈)に向かって、少しずつ、事象をよく考え、心を訓練していくことで、今日の教えは終わりました。)

2日目午前


2日目午後
09:00 菩提心 | コメント(0) | トラックバック(0)
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