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7月の仏教勉強会

2016/06/29
7月2日(土)の東京・慈母会館における勉強会「伝統仏教を学ぶ」は、吉村の所属する研究所の行事と重なっているため、いつもの時間を変更して、11時〜13時となります。ご了承ください。
なお、16日は、平常どおりの予定です。

日時:7月2日(土) 11時〜13時(いつもと違います。ご注意ください)
    7月16日(土)15時〜17時
会場:慈母会館(公益財団法人全日本仏教尼僧法団) 新宿区大京町31 JR千駄ヶ谷駅または信濃町駅下車


内容:浄土信仰のつづきです(前回、前々回にお配りした資料(勧誡王頌・讃仏偈)をお持ちの方はご持参ください)。
阿弥陀仏の光明に触れる、とは? 実感すると人はどう変わるのか、それはどうしてなのか、実感できない人はどうすればいいのか、浄土信仰の実践おいて一番大切なことは、などのテーマを扱う予定です。
参加費:1000円(予約等は不要です。どなたでもご参加いただけます)

内容的に関連する論文等
吉村均『神と仏の倫理思想〔改訂版〕』北樹出版、二章3「親鸞を読み直す」


吉村均「道元・親鸞が見たもの(下) 光明と空」『大法輪』2010年11月号(特集・親鸞小事典)
大法輪 2010年11月号

吉村均「チベットの浄土教」「日本の浄土教」『浄土教の事典』東京堂出版


吉村均「後ろから読む『教行信証』」『カルチュール』9巻1号
(↑明治学院大学機関リポジトリでダウンロード可)

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ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』講義(二日目)

2016/06/06
二日連続して教えを受けて、ダライ・ラマ法王が常々おっしゃっている「ナーランダー僧院の伝統」ということが、すこし実感できたように思います。
ダライ・ラマ法王はナーガールジュナの仏教理解を完全にご自分のものにされていて、シャーンティデーヴァも同じ仏教理解に基づき、それをさらに実践的に詳しく説かれたものとして、『入菩薩行論』の内容を理解され、解説されています。
(昨日のまとめでは省略しましたが)昨日の教えで、法王は『中論』十八章、二四章だけでなく、ナーガールジュナ『友人への手紙(勧誡王頌)』の次の偈を引用されていました。

「真理(法)をさとった人びとといえども、天から降りてきたのでもなく、穀物のように地のなかから現出したのでもありません。彼らは煩悩に依存した愚か者の以前の状態を捨て去ったとき(あらわれるのです)。」116偈

苦しみをなくしたい、仏陀の境地を得たいという時に、単になくしたい、得たいと祈っているだけでは何にもならず、何が苦しみの原因か、何が仏陀の境地の因なのかを知り、実践しなければなりません。
このように、理論的な考えにもとづいて考察をおこない、実践していくことが、ナーランダーの伝統の特色です。

(昨日の『中論』十八章の引用で説かれていたように)苦しみの原因は、対象をその通りの実体があると捉える、間違った捉え方で、それに基づいて煩悩が生じ、悪しきおこないをなします。ですから苦しみは空性を理解する智慧を得ること(「空によって」あるいは「空の中に」)によってなくなりますが、空性を実際に体験するためには、対象をよく分析して、対象にそう見えるような実体がないことを確信し、その境地に一点集中の瞑想をおこなう必要があります。
今日、解説されたのは『入菩薩行論』四章~六章、(今回の解説では言及がありませんでしたが)チベットの有名なパトゥル・リンポチェの「宝の如き最高の菩提心、生じていないものには生じますように、生じたならば衰えることなく、ますます増大しますように」に重ね合わせた説明では、おこした菩提心が衰えることを防ぐための章とされている箇所で、
まだ空性を理解することによって煩悩を根本から断ち切ることはできず、怒りの有害性や、それをなくすことによって得られる利益をよく考えることによって、怒りを遠ざけ、煩悩の力を弱めていく段階にあたります。

今日の教えは、仏教の概説からはじまりました。

初転法輪の四聖諦(苦・集・滅・道)は、パーリ仏典に説かれ、仏教の基本となっています。
第二転法輪(無相法輪)と第三転法輪(分別法輪)の教えは、サンスクリット仏典に説かれ、滅諦と道諦について詳しく説かれています。
(釈尊は四聖諦を三通り説き方で説かれ(三転十二行相)、その二番目の
「苦しみを知りなさい。その原因(集)を滅しなさい。滅した境地を得なさい。道を実践しなさい」
に沿って教えがおこなわれました。)

苦しみには、苦苦(肉体的・精神的普通。私たちが通常考える苦しみ)・(粗い楽が苦に変質するという)壊苦・(すべてのものは苦の本質をもつという)行苦の3種類があり、苦苦は動物でも理解でき、壊苦は第四禅以上の非仏教の境地でも滅することができるもので、釈尊が「苦を知りなさい」と説かれたのは、主に行苦のことです。
その原因の根本は煩悩であり、煩悩は無明から生じているので、苦をなくすためには無明を晴らす必要があります。そのための実践道があり、それを実践してはじめて涅槃に至ることができるのです。
パーリ仏典には、四聖諦それぞれの4つの性質(四諦十六行相)が詳しく説かれています。
・苦諦:無常・苦・無我・空
・集諦:因・集・生・縁
・滅諦:滅・静・妙・離
・道諦:道・如・行・出

見解からいえば、仏教は
・一切皆空
・諸行無常
・諸法無我
・涅槃寂静
の四法印をそなえているのが仏教で、声聞乗の一部の「我」を認める学派は、見解に基づく仏教徒とはいえません。

仏陀の境地に至る実践は、三十七道品で、
・四念住(身念住・受念住・心念住・法念住)
・四正断(生じた悪を滅する・生じていない悪を生じないようにする・生じていない善を生じさせる・生じた善を増大させる)
・四神足
・五根
・五力
・七覚支
・八正道
これらを実践して正しいさとりに至ります。
 菩薩乗では、菩提心をおこし、空と結びつけて実践することで、仏陀の境地を目指します。

今日の『入菩薩行論』の解説は、三章の終わりの、毎日の菩提心生起のなかで唱える部分からはじまり、
四章(不放逸)では、煩悩の過失から心を守ることが説かれ、
五章(正知の守護)では、そのために注意深さ(憶念)と警戒心(正知)を結び合わせ、自分の身口意を見守ることが説かれています。この憶念と正知に初心者の段階から慣れ親しんでおくと、本格的な三学(戒・定・慧)の実践をおこなう際に、禅定(精神集中の修行。非仏教と共通)に役立つということでした。

また、五章30偈の「貫主(チベット語ではケンポ)が説いた教えによって」に関連して、正しい師と間違った師を見極めることの重要性が説かれ、正体を隠して女主人の使用人になっていた、というパトゥル・リンポチェのエピソードが紹介されました。ラムリムに、ラマの10の資格が説かれているそうです。

人間社会は欲望にまみれた社会であり、(自分が懺悔する際には、自分と悪いおこないを分離しているように)悪をなした人に対して、その人が悪いのではなく、煩悩が悪いのだと捉えることが重要であり(56偈)、このことは六章に詳しく説かれています。私たちは体、食物、住処など、肉体レベルの幸せを求めますが、59偈以降で、体に対する執着の対治が説かれています。

(会場で配られた日本語訳とは解釈が違うように思いますが)78偈では、逆境を道に変えることが説かれ、(これはダライ・ラマ法王が一般講演の質疑応答でよくアドバイスされることですが)ひどい状態を一つの角度から見るのではなく、様々な角度から見ることの重要性を話され、亡命によって世界中に友人ができ、ナーランダーの遺産を共有し、科学者との対話もできたというご自身の体験を話されました。

83偈では、六波羅蜜が布施・持戒…の順に、後のものほどすぐれた行で、その順に実践をおこない、小さなもののために大きなものを捨ててはならないということが説かれました。

六章(忍耐)では、怒りの過失を考え、忍耐の利益を考えることが説かれ、それによって忍耐の行を進めることができるようになります。19偈の「賢者は、苦しみが生じようとも、その心の純粋さは汚されない」に関連して、ご自身が(これはブッダガヤでカーラチャクラ灌頂が予定されていた時の話で、現場は大混乱でしたが)仏跡巡礼に行かれて体調を崩され(腸に穴があいていたそうです)、病院に運ばれる途中、貧しい子供や老人の姿を目にされ、激痛ではあったものの、彼らへの強い思いでさほど苦には感じられなかった、という体験を話されました(このエピソードは『素顔のダライ・ラマ』に詳しい)。

87偈以降が六章の後半部にあたり、私たちは敵がひどい目にあうと喜びを感じるが、それは自分を苦しめる因にしかならず、敵は自分を高める機会を与えてくれる恩深い存在であり、私たちは衆生と仏陀に依存してさとりを得るのであり(仏陀が教えを説かなければ、仏陀の境地を目指すことはなく、同様に衆生がいなければ、一切衆生のために仏陀の境地を目指すということが成り立たない)、その意味で仏陀と衆生は同じくありがたい存在であることが説かれています。

(昨日の教えのなかでたしか触れられていたように思いますが、「世間のあらゆる楽、それらすべては他者に楽を望むことで生じ、世間のあらゆる苦、それらすべては自分に楽を望むことで生じる」(八章129偈)に向かって、少しずつ、事象をよく考え、心を訓練していくことで、今日の教えは終わりました。)

2日目午前


2日目午後
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ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』講義(一日目)

2016/06/05
 古代インドの高僧シャーンティデーヴァ(寂天)が著した『入菩薩行論』は、インド・チベットの伝統で、いかにして仏陀の境地を目指すかを学ぶための論書として、重視されてきました。
阿含経典には、私たち凡夫がいかに輪廻の苦しみから脱するかについて説かれています。大乗経典には、仏陀の境地や、それに至るための実践である六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)が説かれています。
しかし、六波羅蜜はお釈迦さまが前世におこなった善行の数々(前世物語=ジャータカに説かれている)に基づくものであり、たとえば布施波羅蜜は、お釈迦さまが前世で飢えた虎を助けるために自分の体を与えたこと(捨身飼虎)などに基づいており、「私」の実体視に捉われている今の私たちが直ちに実践が困難なものです。
 では、阿含経典でも大乗経典でも主題的に説かれていない、私たち「凡夫」が仏陀の境地を目指すためにはどうしたらよいか、それが説かれているのが、この『入菩薩行論』なのです。
 特にチベットでは、シャーンティデーヴァの生まれ変わりとうたわれたパトゥル・リンポチェ(ウゲン・ジグメ・チューキ・ワンポ。1808~1887)が現われてたびたび教えを説かれ、現在のダライ・ラマ法王もその法脈に連なっておられます。
 若き日の法王は、空性については学習と修行を続けていれば、いずれ体験できるだろうという感覚を持たれていましたが、菩提心については、理想論であって現実的ではない、とお考えだったそうです。そのお考えが根本から変わったのが、この『入菩薩行論』の教えを故クヌ・ラマ・リンポチェ(1895~1977)から受けたことによってでした。
インドでの教えでは、この『入菩薩行論』を読み上げて伝授をされながら、その内容に感動して涙を流されるお姿が、目撃されています。
 このような教えが日本で説かれたことは、大変喜ばしいですが、ゴールデンウイーク直後の平日四日間という日程もあって、参加したいけれどできなかったという方、また会場で同時通訳で教えを聞いていても、あまりの速さに理解が追いつかなかった方も、少なくなかったようです。
 以下は、関心のある方のために、当日のメモを簡単にまとめたものです。あくまでも私的な覚書ですので、正確な内容は、日本語訳つきで公開されている映像でご確認ください。
(会場では、ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ、西村香訳『チベット仏教・菩薩行を生きる 精読シャーンティデーヴァ入菩薩行論』の日本語訳が配布されました。この本はリプリントをチベット仏教普及協会で購入することができます。)


大阪でのダライ・ラマ法王の教えがはじまりました。
今日はシャーンティデーヴァ『入菩薩行論』一章から三章まででした。
一章の「菩提心の利益」は、実際に自分が菩提心をおこすためには、なぜ菩提心をおこす必要があるかを理解する必要があり、動機づけとして、その利益が説かれています。
続く、二章と三章では、実際に菩提心を生起させるために、まず七支分(礼拝・供養・懺悔・随喜・教えを説いてくださいという請願・涅槃に入らないでくださいという祈願・廻向)の祈りを唱え、それから実際に菩提心を生起させる段階にはいります。
菩提心生起の偈を唱えることは、文殊菩薩の許可灌頂とともに、四日目におこなうということでした。

ダライ・ラマ法王はが強調されていたのは、人間としての知性を用いて智慧をはぐくんでいくことの必要性で、苦しみの原因を知り、それを取り除くということをしなければ、苦しみを滅することは困難です。知性を用いて修行をすすめていくのが、インドのナーランダー僧院の伝統であり、また21世紀の仏教徒のあるべき姿でもある、ということでした。
それに関連して、一章から三章を解説されるだけでなく、『入菩薩行論』九章の冒頭を引用され、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』の内容と関連させて説明されていました。
『入菩薩行論』九章1偈に、

「これらすべての支分は、牟尼が、智慧のために説かれた。それゆえにもろもろの苦を滅したいと願うなら、智慧を生ずべきだ。」

とあり、空を理解する智慧が苦しみを滅する直接の手段となります。なぜ空を理解することが苦しみを滅するのかは、
『中論』十八章5偈に、

「業と煩悩とが滅すれば、解脱がある。業と煩悩とは、分別から起こる。それらは、戯論から起こる。しかし、戯論は空性によって(あるいは「空性の中に」)滅せられる。」

とあります。仏教用語の「戯論(けろん)」とは、心が心の作り出した虚構のあり様に捉われていることで、私たちは自分が捉えた対象を実体と考えて、怒りや貪りの心を起こし、悪しきおこないをなして、自・他の苦しみを作りだしてしまいますが、それは正しい物の捉え方ではなく、分析をすると、自分が思っていたような実体をどこにも見出すことができないことがわかります。
続く『入菩薩行論』九章2~5偈では、『中論』二十四章で説かれている二諦(にたい。世俗諦・勝義諦)が取り上げられ、

「世俗と勝義、これらは二諦として認められる。勝義は意(=認識)の対象ではない。意は世俗であると言われる。
それには二種類の世間が見られる。ヨーガ行者と通常の人である。それに関して、通常の人の世間は、ヨーガ行者の世間によって否定され、
ヨーガ行者〔の中において〕も、優れた者それぞれが優れた意によって〔劣った者の見解を〕否定する。(略)
世間の人は、ものごとを見て「真実である」と分析し、幻のようだとは見なさない。ここに、ヨーガ行者と世間の人との論争がある。」

と説かれていますが、ここでいう「ヨーガ行者」とは、ハタヨーガではなく、対象を分析する仏教修行者のことで、
普通の人(仏教で言う「凡夫」)は、自分が捉えた対象を実体と捉えているのに対し、対象を分析する修行者はそうではない、
ということが述べられています。
苦しみから解脱するのには、対象が空であることを理解して、煩悩を滅するだけでいいですが、煩悩障だけでなく、微細な所知障をも滅しなければ、一切智者(=仏陀)の境地に到達することはできません。
一切衆生を苦しみから解放するためには、自分が一切智者の境地に至る必要があり、そのために菩提心をおこし、空性を理解する必要があるのです。

【法話動画】
1日目午前

1日目午後
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6月4日(土)仏教勉強会のお知らせ

2016/06/04
今週末(6月4日)は、いつもの時間に慈母会館での勉強会があります。これからしばらくのあいだは、浄土信仰についてお話ししようと思っています。
近代的な仏教理解では、たとえば禅は自力で念仏は他力などといわれますが、それは伝統的な仏教理解とは異なります。釈尊は相手に合わせて教えを説かれ、異なる宗派や修行方法の存在も、そのことによって説明されます。
教えの違いは、聞く側の気質に合わせたもので、苦しみの原因やその解決方法そのものに変わりはありませんから、一方が修行の必要性を説き、他方が修行は必要ないと説くということはありません。親鸞聖人の説く「他力」とは、浄土への往生が阿弥陀仏の誓願の働きによるものである、ということです。
少し前までは、チベット仏教=密教のようなイメージを持たれていましたが、実際には、チベットには、密教の教えも、浄土の教えもあり、何をおこなうかは、宗派ではなく、その人その人によって異なります。
また、当然のことですが、日本の阿弥陀仏と別にチベットの阿弥陀仏がいらっしゃったり、日本の極楽とチベットの極楽が別々にあったりするわけではありません。
今回はまず、なぜ往生なのか、ということに関連して、仏陀との出会いの必要性についてお話ししたいと思います。
成仏=仏陀になる、といっても、仏陀に実際に出会ったことがなければ、なにを目指すか、(それがわからなければ、当然、)どうやって目指すかも、わからないでしょう。
どの教えを選ぶかは、ひとつは、このことにかかわってきます。
仏陀に出会うというのはどういうことか、また出会うと人はどう変わるのか、などについてお話しする予定です。

日時:6月4日(土) 15時~17時
会場:慈母会館(公益財団法人全日本仏教尼僧法団) JR千駄ヶ谷または信濃町駅下車
参加費:1000円
(どなたでもご参加いただけます。事前の予約等は不要です)
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