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チベットの生と死の書/ソギャル・リンポチェ

2013/01/30
チベットの生と死の書 (講談社プラスアルファ文庫)チベットの生と死の書 (講談社プラスアルファ文庫)
(2010/09/21)
ソギャル・リンポチェ

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"仏教の死生観の現代的意義と、実際に役立つケアの方法—家族や知人が死に直面している時の対処法、自分の生来のやさしさを蘇らせ育てる方法—を説き、欧米でベストセラーとなった。これを読んで仏教がどういう教えかわかった、古臭いものだと思い込んでいた仏教に関心を持つようになったという声も多い。"
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現代日本における倫理的危機と仏教的価値観の可能性

2013/01/25
 2011年11月にインドで釈尊成道2600年を記念しておこなわれた国際仏教会議(Global Buddhist Congregation 2011)の「倫理と価値観」部会でおこなった発表の要旨です。世界から約900人が集まり、他の発表者としては、チベット仏教の高僧、カルマパ17世やタイシトゥ・リンポチェ、ソギャル・リンポチェもいらっしゃいました。

 日本からは他に、根本紹徹師・藤田一照師・緑川明世師も発表されました。閉会式にはダライ・ラマ法王も参加され、盛会でした。

現代日本における倫理的危機と仏教的価値観の可能性(発表要旨)
Ethical Crisis in Contemporary Japan and Possibility of Buddhist Values

吉村均(財団法人東方研究会研究員)          
YOSHIMURA Hitoshi (Research Fellow of the Eastern Institute)

私たち日本人は、今年(2011年)3月の地震と津波の深刻な被害に対しての、世界中からの支援と祈りに、心からの感謝を申し上げます。

しかしこの甚大な被害以外に、私たちは別の深刻な問題に直面しています。それは自殺の問題です。津波は一瞬のうちに巨大な都市を消し去り、2万人近い人々が死亡・行方不明となりました。しかし毎年の自殺者は3万人以上です。地震と津波の犠牲者よりもはるかに多くの人が、自ら命を絶っているのです。

日本は経済的にとても繁栄していますが、それは広告などにより新たな需要を生み出すことによって達成されています。かつて、経済的発展には限界があると考えられていました。買いたい人が全員その品物を買ってしまえば、それはもう売れなくなるからです。しかしニューモデルと広告によって新たな需要と欲望が生み出され、経済は限界なく発展しつづけました。そのため、人々はいつも新しいものを求め、内なる価値観が見失われています。かれらの欲望すら外の価値観から生み出され、内からのものではないのです。そのため、失業や離婚などによって社会との関係が失われたと感じた時、多くの人々が生きる意味を見失ってしまうのです。

学校では、「いじめ」の問題があります。子供達は連帯感を求めており、その最も簡単な方法は共通の「敵」をつくることです。ささいなことがいじめの理由となります。いじめられないもっとも簡単な方法は、他の誰かをいじめることです。

今日、日本人は他人の価値判断に過度に依存しています。内なる価値観と健全な自信の確立が必要です。

私は、仏教がこの問題に有効であると考えています。仏教は、得ることが困難な人の生の貴さの自覚からはじまります。古代の仏教の偉大な師は、「たとえ世界を獲得することができたとしても、私たちの欲望が満たされることは決してない」と説きました。これは真実です。日本の社会の発展はこの終りがないという欲望の性質を利用して到達されています。ですから、私たちはその対処法も、仏教の中に見いだすことができます。

しかし、日本仏教も問題を抱えています。明治以降、日本社会は近代化し、西洋の科学技術が導入されました。仏教学も同様に西洋から導入されました。そのため、近代日本の仏教の考え方は、伝統的なものとは異なってしまっています。仏教学は約百年前のヨーロッパの学者の研究に基づいて発達しています。今日では、僧侶や尼僧であっても、輪廻は単なる迷信だ、とか、大乗経典は仏陀の教えではなく、後代に作られたものだ、と考えている人が少なく有りません。今日では彼らの主な仕事は伝統的な儀式の継承にあり、その儀式が本当に効果があるかどうかは、彼らにとって重要では無いかのようです。

さらに、日本仏教の多くの宗派は頓悟(突然の悟り)に属しています。そのため、開祖の直接の弟子ですら、理解することは困難でした。僧院では、共通の仏教哲学(アビダルマ、唯識、など)とその宗派独自の教えの両方が学ばれていましたが、前者は衰退し、後者はドクマ化しました。現在では最も高度で理解の困難な教えが平易で易しい教えと誤解され、そのように教えられています。

私の研究と仕事は3点からなります。

ひとつは、古代インドの聖ナーガールジュナ(龍樹)の教えの研究です。ナーガールジュナは苦しみからの解放の仏教の階梯を明らかにしました。

第2は、日本仏教のナーガールジュナの教えの観点からの読み直しです。日本仏教の諸宗派の開祖(空海、道元、親鸞など)は、彼らの教えの基盤をナーガールジュナの思想に求めました。ですから、それらの開祖の教えの本来の意味を、ナーガールジュナの思想との対比によって明らかにすることができます。

3番目は、非仏教徒でも実践可能な、仏教の伝統に基づく心の変容法の紹介と普及です。私はチベット仏教の心の訓練法(チベット語で「ロジョン」)がこの役にたつと考えています。

 チベットの心の訓練法(ロジョン)の2つの主な実践は、無我の瞑想法と、トンレン(自己の幸せと他の苦しみの交換)の瞑想で、これはナーガールジュナが明らかにした仏陀の境地への2つの主な実践―智慧資糧と福徳資糧に対応しています。日本仏教の多くの宗派は「頓悟」の教えに従っており、段階的な階梯の教えはその信者が難解な教えを理解するのに役立ちます。

それだけでなく、ロジョンは西洋社会でポピュラーになっており、非仏教徒でも実践可能な形でも紹介されています(ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』十二章を参照)。日本の公教育では宗教教育が禁止されています。ですから、私たちには非仏教徒でも実践可能な仏教の考えに基づいた実践法が必要です。

私の大学や看護学校や学習グループで仏教を教えた経験から、以下の点がきわめて重要であると感じています。

本来ロジョンはきわめて高度な実践であり、それは誰にでも適したものではありません。ソギャル・リンポチェは西洋人に、ロジョンの実践の前に自然なやさしさを心に回復することをアドバイスしています。それはかつて愛され、やさしくされた経験を思い出すことによって果たされます。あるいは、トンレンを自分を対象としておこなう―傷ついた自分自身を観想して、その苦しみを吸い、幸せを与える。このアドバイスは、仏教の本質的な理解に基づいています。仏陀は聞き手の関心や能力に合わせて、異なる教えを説かれました。病状に合っていない薬は、毒に変わります。

日本仏教は大乗仏教の伝統に属するため、人々は仏教の教えを、利他を説くもので、自分の幸せを望むのはわるいことだと考えがちです。たしかに、そのような教えはあります。が、その文脈を考える必要があります。日本仏教はチベット仏教と同様、人間としての生はきわめて得難く、人としての体はきわめて貴重であることを自覚することからスタートします。

日本のような自分自身の大切さが見失われた社会においては、仏教は段階的に教えられる必要があります。最初のステップは自分自身の幸せを望んでいいということで、利他は次のステップです。利他の教えは自分の幸せを増大させるためのもので、仏陀は自分が幸せになることを禁じてはいません。

まずこの方法を、教師や看護師や子供を育てる母親、他者のケアに従事する人に普及させる必要があります。彼らは常に利他をなさなければならないことが求められ、ストレスにさらされています。両親に他をおもいやる心のゆとりがなければ、他者を思いやる子供は育ちません。ですから、まずケアをする人からはじめなければなりません。

チベット仏教は、かつて「ラマ教」と呼ばれていました。ラマ教という言葉を非正統的な仏教という意味で用いるのであれば、それは間違いです。しかしこの言葉はチベットを訪れた宣教師に由来します。彼らは創造主を信じています。しかし仏陀は創造主ではありません。仏陀は師であり、そうなりたいと思われ、目指される理想像、目標です。彼は不変の幸せへの正しい道を示す「ラマ」なのです。

仏教の利他の教えが実際には自分の幸せを増大させるものであることを理解することは容易ではありません。それを理解するためには、利他のみを考えて幸せである生きた実例が必要です。私は授業で、妙好人(阿弥陀仏への不変の信によって悟りを得た人たち。鈴木大拙『日本的霊性』を参照)の生涯や、ダライ・ラマ法王のビデオを紹介しています。偉大な師たちは教えを通してだけでなく、その存在を通じて正しい道を示しているのです。


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ガルチェン・リンポチェの教えをより深く学ぶ会

2013/01/20
ガルチェン・リンポチェの教えをより深く学ぶ会
日時 2013年2月4日(月)スタート  18:30 〜 21:30
   毎月第1,3月曜予定/途中参加歓迎)
場所 チベット文化研究所 瞑想室 
講師 吉村 均


 来日時の教えを、その背景や リンポチェの他の教えを踏まえて、学んでいきます。最初に取り上げるのは、講演「半生とその系譜」(『チベット文化研究会報』に連載中)です。仕事を終えてから参加される方のため、最初の30分は復習や質疑応答をおこない、その後新しい箇所にはいります。
 心の本質をはっきり悟られている師が説かれる内容には、一般講演であってもその背景にはゾクチェンやマハームドラーの考えがありますし、ゾクチェンやマハームドラーの教えには、その前提として一般講演で説かれている内容があります。どちらか一方だけで理解できる、というものではありません。
 ゾクチェンやマハームドラーは本来非公開の教えであるため、断片的な情報からの憶測が広まってしまっているのが現状です。そこで直接チベットの師からお聞きしたことに基づいて、ガルチェン・リンポチェの一般講演とゾクチェンやマハームドラーの教えがどのようにつながっているか、解説していこうと思います。
 要予約。お問い合わせやご予約は、チベット文化研究会まで(TEL03-5745-9889)
09:00 法話、講座 | コメント(1) | トラックバック(0)

現代仏教塾第1回「日本仏教がチベット仏教に学ぶもの」(3/6)

2013/01/15
現代仏教塾第1回「日本仏教がチベット仏教に学ぶもの」(3/6)
講師:吉村 均(中村元東方研究所研究員)
会場:真宗大谷派 高明寺 横浜聖地霊園会館
日時:2012年10月6日(土)
09:00 日本仏教とチベット仏教 | コメント(0) | トラックバック(0)

『ダライ・ラマの「中論」講義』の書評

2013/01/05
『中外日報』2010年5月22日掲載
『ダライ・ラマの「中論」講義』の書評

ダライ・ラマ法王は来日講演などで日本人に、ナーガールジュナ(龍樹)の『中論』を学ぶことを強く勧められてきた。ナーガールジュナは日本仏教でも八宗の祖とされ、『中論』は名高いが、たやすく理解できる内容ではない。本書は二〇〇六年、南インドのナーガールジュナゆかりのアマラーヴァティーでおこなわれた法王ご自身による『中論』の解説で、長く刊行が待たれたものである。26・18・24章というのが、法王が理解のために勧められる読む順番で、それによって浮かび上がったのは、『中論』が釈尊の説かれた四聖諦(苦・集・滅・道)を基本的枠組みとしていること、苦しみの真の原因を突き止め、それを滅することによって解放されるという、現代社会にも通用する実践論であるということだった。

十二支縁起を説く26章では、無明から輪廻の苦しみが生じるプロセス(集諦→苦諦)と、無明を滅することによって苦しみを滅することができること(滅諦)が説かれ、18章では、その無明にほかならない、私と私の捉えた世界の実体視(我執)が吟味され、実体がない=空であることが示される。しかし、この空を、実体視に捉われた私たちが正しく理解することは容易ではない。24章は空を虚無論であるとする誤解に基づく論難に対する応答を記した章で、法王は、他に依存して名前を与えられたのみの存在として成立しているという、極めて微細なレベルでの縁起の見解を理解すると、空でない現象は何ひとつ存在しないことが理解できるという18、19偈こそが、『中論』の教えの真髄であるとしている。この解説で最後に位置するのは、24章最終偈の「縁起を見る者は、苦諦、集諦、滅諦、道諦の、すべてを見る」である。

実際に本書を手にとられた方は、冒頭で、仏教が一番すぐれていると決めてかからずによく分析して理解すべきことが説かれ、訪れたチベット難民キャンプの小学校で、小さな女の子が法王に向かって堂々と、科学に基づき日食の仏教的説明を否定したことをよろこばれているのに驚かれるに違いない。法王は継続的に科学者や心理学者と討議の場を持たれているが、この『中論』講義も、単に伝統だからというのではなく、厳しく内容を検討吟味されたもので、それゆえ得られた理解は、ご自身の生き方や、海外講演での質疑応答で寄せられる、世界平和から身の不幸に至るまでのありとあらゆる質問に答える指針となり得ているのである。

なお、日本仏教、特に禅の無の教えに慣れた方は、本書で法王が空を「ある」と考えるべきと説かれていることについて、違和感をおぼえられるかもしれない。「ないのではなく、その自性がなく空である」というのが、チベット仏教の、中でもゲルク派に特徴的な説明である。悟りは有無を離れた境地といわれるが、それは対象を概念的に捉え、実体視することから解放された状態であり、つまり、有無を越えた無や空という言葉は、言葉を超えた境地をすでに理解している人にしか理解できない言葉なのである。ナーガールジュナの時代から空について誤解があるのもそのためで、ゲルク派の開祖ツォンカパは工夫してそのように説明した。これはインドにおける伝統的な説明とは異なるため、他派との論争を巻き起こし、チベット学の専門家にも誤解がみられるところだが、18章7~9偈の法王の解説を読まれるなら、瞑想による空の直接体験(現観)が言語を絶した境地であることを否定したわけではないこと、上記の言い方が概念レベルで学習実践している者を導くための言葉であることが、明瞭に理解できるだろう。

 この講義の背景や意義は、序言と後書に詳しいが、ぶ厚い汚れをぬぐいさり、洗浄によって鮮やかに蘇った名画のごとき、まさに「生きた『中論』の教え」がここにある。日本でも近年、僧侶や寺院のあり方をめぐって様々な議論があるが、現代における仏教のあり方を真摯に問われる方々に、法王のこの力強い教えは、何よりの指針となるに違いない。評者は幸運にも南インドでこの教えを受けることができた者のひとりである。関係者の並々ならぬ努力によって刊行された本書によって、一人でも多くの方とこの至宝を享受する幸せを分かち合うことができることを、心から祈りたい。

吉村均  『中外日報』2010年5月22日掲載
ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章
(2010/05)
ダライラマ14世テンジンギャツォ

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