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伝統仏教から見た『般若心経』

2013/04/21
『般若心経』は日本でもっともポピュラーな経典で、沢山の解説書がでています。読みものとしては興味深いかもしれませんが、それらの多くは、仏教僧によるものであったとしても、その人個人の考えを書いたものがほとんどです。

【インド・チベットの伝統における『般若心経』】

 チベットでも『般若心経』の読誦は盛んで、チベット大蔵経には、インド仏教における『般若心経』の註釈書がいくつかチベット語訳され、収録されています(渡辺章悟『般若心経』を参照)。実は『般若心経』には大小二種類が存在し、チベット大蔵経に収録されているインド仏教の註釈書は、いずれも大本に対してのものです。サンスクリットや漢訳にも大小二種が存在し、私たちのよく知っている「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空…」ではじまるのは、小本の方です(『般若心経・金剛般若経』岩波文庫)。大本は、通常のお経と同じく「如是我聞」ではじまるもので、小本の内容の前後に状況説明がついています。私たちのよく知る小本では、観自在菩薩(観音)と舎利子(シャーリプトラ=シャーリの息子、の意。釈尊の高弟。舎利弗とも)が登場しますが、大本を見なければ、二人がどのような関係にあるかわかりませんし、釈尊も登場しません。これらがわかるのが、大本です。
 大本によれば、釈尊は霊鷲山(『般若経』や『法華経』が説かれた山)で瞑想中で、その境地を観音さまが理解し、シャーリプトラの問いに答える形で、釈尊の悟りの境地、智慧の完成(般若波羅蜜)がいかなるものであるかが解説されます。『般若心経』は、釈尊の悟りの境地を観音さまがシャーリプトラに解説している経典です。

【諸法を説く阿含経典と、それを空、無と説く『般若心経』】
 仏教の流れには大きく分けて、中国、日本やチベットなどに伝わるいわゆる大乗(北伝仏教)と、東南アジアに伝わるテーラワーダ(上座部)(南伝仏教)があります。前者は阿含経典と大乗経典の両方を仏典として認めますが、後者は阿含経典のみに基づき、大乗経典は経典と認めていません。『般若心経』は大乗経典で、内容的におかしい、と批判される方もいらっしゃいます。それには無理からぬところがあります。『般若心経』で空である、無であるとされているのは、阿含経典で釈尊が重要な教えとして説かれているもの―諸法だからです。

【一切法=五蘊、十二処、十八界が空】
 有名な「色即是空、空即是色」は、観音さまが理解したという釈尊の瞑想の境地、「五蘊皆空」のうち、色蘊が空であることを詳しく説いたものです。残りの四つ(受・想・行・識)も同様である(「受想行識、亦復如是」)と続きます。続く、諸法の空の面(「諸法空相」)においては「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」というのは、感覚とその対象である十二処が空であることを説いています。その次の「無眼界乃至無意識界」は、感覚をさらに感覚とそこでの心の働きに分け、三×六=十八、十八界が空であることを説いています。
この、五蘊、十二処、十八界は、一切法と呼ばれ、それぞれが、外の世界のことであれ、心の中のことであれ、現象の何を取り上げても、必ずそのどこかに入るカテゴリーです。阿含経典で、釈尊は、主に出家の弟子たちに、あなたたちがあると信じて疑っていない「私」はどこにあるか、五蘊、十二処、十八界を調べてみなさい。と説かれています。そうやって自分で探してみて、どこにも「私」を見つけだすことができないことが分かった時、それが悟りです。

【十二支縁起・四聖諦が空】
 次の「無無明亦無無明尽、乃至、無老死亦無老死尽。無苦・集・滅・道」は、十二支縁起と四聖諦が空であることを説いています。
 四聖諦は、仏陀となった釈尊が最初に説いた(初転法輪)とされる教えで、苦しみ(「苦」)とその原因(「集」)、苦しみを滅した境地(「滅」)とそこに至る実践(「道」)の四つの真理です。苦しみの原因がわかれば、それを取り除くことによって苦しみから解放されることができる、四聖諦は、苦しみとその原因、苦しみの解放とその原因の、二つの結果‐原因の関係からなりたっています。
 それを十二の段階で瞑想するのが、十二支縁起です。私たちが輪廻の苦しみの中にある理由を遡っていくと、「無明」が真の原因であり、無明があれば行があり…と、無明~行~識~名色~六処~触~受~愛~取~有~生~老死の十二の段階で瞑想していきます。原因が分かればそれを除けば苦しみから解放されますから、それも十二の段階で無明尽~…老死尽と瞑想していきます。『般若心経』は、それすらも空だと説くのです。

【遠離一切顛倒夢想―空の理解と苦しみからの解放】
 さらに続きます。「無智亦無得」、『般若心経』の「般若」というのはインドのプラージュニャー、智慧という言葉に漢字をあてたものですが、それすらもなく、悟りを得るといいますが、得るということすらない、と言います。それが「般若波羅蜜」、智慧の完成で、過去の仏陀も現在の仏陀も、未来の仏陀も、このような智慧の完成によって仏陀の境地に至るのだ、というのです。
 これは何を意味しているのでしょうか。「以無所得故、菩提薩捶、依般若波羅蜜故、心無罣礙、心無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃」、得ることがないという智慧の完成によって、心に妨げがなく、妨げがない故に恐怖がなく、永遠にあらゆる逆さまの夢のような捉え方から離れている、それが涅槃だ、と経典は説いています。私たちは自分の視点から物事を捉えていますから、その私の観点からは、悟りはあり、得るという行為もあります。しかしもし悟りが本当にそのような得られるものであるならば、その悟りは失われるかもしれませんし、他から奪われないよう、傷つけられないよう、守る必要もでてくるでしょう。そのような思いからの解放こそが、苦しみから完全に解放された仏陀の境地だ、経典はそのように説いているのです。

【阿含経典の筏の喩え】
 忘れてはならないのは、これらは釈尊が弟子に説いた教えではなく、瞑想中の釈尊の境地を観自在菩薩が理解して舎利子に説明しているものだ、ということです。阿含経典は釈尊が苦しみからの解放のために弟子に説いた教えで、それに対して『般若心経』は、苦しみから解放された境地を描いた経典なのです。
 教えが手段であって、捨て去られるべきものであることは、阿含経典の中でも、筏の喩えで説かれています。釈尊は、自分は筏で向こう岸(悟りの比喩。「彼岸」の語源)に渡り終え、もう筏は必要なくなった、と説かれています(『スッタ・ニパータ』)。また別の機会には釈尊は、向こう岸に渡り終えた人が筏を担いでいったらどうだろう、と非法を捨てるべきことはもちろん、法も捨て去られるべきものであることを説かれています(中部『蛇喩経』)。
 このように、阿含経典と『般若心経』の内容は、矛盾・対立するものではなく、苦しみからの解放の手段と、その結果の関係にあるものなのです。

【般若波羅蜜多呪と大本における締め括り】
 このような苦しみからの解放の境地は、苦しみにある私たちには本当の意味では理解できません。また、言葉は、苦しみの真の原因である間違った捉え方、私が世界を対象的に捉える、そのための道具ですから、言葉で言い表わすことも、本当はできません。そのため経典では、次にこの智慧の完成の内容が、呪(陀羅尼)の形で説かれます。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」
 『般若心経』小本はそこで終わりますが、大本は、その後に締め括りの内容がもう少し続きます。大本では、釈尊が瞑想を終えられ、「その通りである」と観音さまの説明を承認し、集まっていた人々や神々が皆喜んだ、と説かれて終わります。
 聴衆の歓喜で終わることも経典の定型ですが、見逃してはならないのが、瞑想中だったはずの釈尊が、観自在菩薩と舎利子の会話をすべて知っているということです。
 私たちだったら、自分の噂を二人がしていて、それが気になって集中して瞑想できなかった、ということになるかもしれません。しかしそれでは苦しみから解放された境地とはいえません。修行においては、瞑想中に空を体験すると、瞑想を終えて感覚が再び対象を捉えるようになっても、(本物だと思って怯えていた映画やテレビのお化けや怪獣が作りものだとわかってしまったようなもので)実体としては映らなくなる、と言われています。そうやって瞑想中と瞑想後を繰り返していくのが修行の段階です。しかし修行が完成した仏陀においては、この二つが交互ではなく、空を体験している瞑想の境地にありながら、同時に世界も捉えることができる、と伝統仏教学では説明されています。大本の締め括りは、そのことを示しているのです。

【大乗経典の真偽についての伝統的説明】
 釈尊は著作を書き遺さず、さまざまな弟子にその素質や理解の度合いに合わせて異なる教えを説かれた(対機説法)といわれます。阿含経典は、釈尊が般涅槃された後、教えを受けた弟子が集まって編纂されたものだというのが、伝統的な説明です。
 大乗経典は、その阿含経典には含まれない、後の時代になって登場したものですから、古代のインドでも、認めるか認めないかで議論がありました。
 内容的に仏陀の教えと認められるべきことを論じたのが、古代インドのナーガールジュナ(龍樹)です。また、教えを受けた弟子が編纂した阿含経典に含まれていなかったということについては、インド・チベットの伝統では、次のように説明しています。大乗経典は高度な内容だったため、最初人間世界に伝わらず、菩薩たちや神々や龍の世界に伝えられ、後に人間世界にもたらされたのだ、と。
 『般若心経』においては舎利子が観自在菩薩と会話しています。シャーリプトラは煩悩を滅した阿羅漢の境地にありますから、観音さまの姿は見えるでしょうが、普通の人は観音さまの姿を見ることはできません。もし霊鷲山で『般若心経』に説かれているようなことが実際にあったとしても、普通の人が見ても、お釈迦さまは瞑想中で、舎利子は誰からから何か聞いているようだが、その相手も目にすることができず、話す内容も聞こえないでしょう。それゆえ人間世界には伝わらず(シャーリプトラは釈尊よりも前に入滅しています)、後の時代になってから出現したのだ、それが伝統的な説明です。
(吉村均)

(2012年9月22日、ナマステインディア2012における講演要旨。原題「インド仏教における『般若心経』」)

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