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論文「空海『秘蔵宝鑰』を読む」が活字になりました

2016/04/04
論文「空海『秘蔵宝鑰』を読むー十の心の段階に合わせた教えとしての体系的仏教理解ー」(On Kukai's Hizo Hoyaku: The systemativ understainding of Buddhism in the Ten Stages of Mind)が活字になりました(明治学院大学教養教育センター紀要『カルチュール』10巻1号)。
1~2ヶ月のうちには、インターネットでもPDFファイルの形で閲覧・ダウンロードができるようになります(明治学院大学機関リポジトリ)。その際にはまたお知らせします。
内容は、

はじめにー近代仏教学と伝統仏教
一 伝統仏教の概観
二 空海のその十住心・第一~第三まで
三 仏教固有の教え(第四以降)
・第四 唯蘊無我心
・第五 抜業因種心
・第六 他縁大乗心
・第七 覚心不生心
・第八 如実一道心
・第九 極無自性心
・第十 秘密荘厳心
四 十住心の教えと現代


からなります。
紙幅の都合もあって、慈母会館の勉強会ほどひとつひとつを詳しく扱っているわけではありませんが、十住心の教え相互の関係に光をあて、空海の仏教理解を探るものです。
今の仏教理解では、仏教は西洋の一神教のように教義で成り立っているとものと捉えられ、そうなると、日本の各宗派は、名前は仏教でも別々の教義の教えということになってしまいます。
さまざまな教えの存在は、釈迦の説いたオリジナルの教義の変質や他思想の混入で説明されてしまいますが、釈尊は決まった教義を説いたのではなく、相手に合わせて異なる教えを説かれた、というのが伝統的な仏教理解で、十住心の体系は、それをどのような心に対してどのような教えが説かれたのか、という観点からまとめたものです。

「仏教では苦しみの原因を我執、自分と自分が捉える対象の実体視に求める。それは根拠のない習慣性でしかないので、実践実践によって変えることが可能である。
しかし、それは単なる思想信条ではなく、今この瞬間にも不断に私たちの心がおこなっている、対象捉える働きそのものに関わっているため、仏がなくしてあげることはできず、一人一人が実践することによって心を変えていくほかない。それが修行である。
しかしそれはその人自身が行なわなければならないものであるため、本人に動機づけ、それをおこなう必然性が自覚されていなければ、修行法を説いたとしても、実行されることはない。
しかも、自分と自分が捉える対象の実体視は、大半の人にとっては疑うことすらない「現実」で、それが苦しみの原因であるとか、それを変えなければならないものとは考えられていない。
相手に合わせて異なる教えが説かれたのはそのためで、その人その人に理解可能な目標設定をし、心を訓練していくことで、次の段階の目標設定が理解、実践できるようになる。これが『秘蔵宝鑰』から読み取ることのできる、空海の仏教理解である。」

「かつての日本では、ちょうど医者が医学部で医学理論と実際の治療法の両方を身につけて、医者として患者を救うことができるようになるのと同様に、僧院では倶舎・唯識などの苦しみからの解放の理論と、その宗派固有の実践法の両方を学んで、人々の救済にあたっていた。
しかし冒頭で述べたように、明治以降、当時のヨーロッパの仏教研究を取り入れた近代仏教学がおこり、僧侶も大学で学んで僧侶の資格を取るようになったため、前者の伝統は急速に衰えてしまっている。
しかしそれでは、薬や治療法はあるものの、それが何のためにどうやって役に立つのか、治療する医者自身にもわからないということになってしまう。
同様の伝統はチベットでは今も受け継がれており、その再導入は日本仏教再興の鍵となる。しかし、それには十年、二十年という歳月を要し、僧侶すべてがそれを学ぶことは現実的でははない。
しかし『秘蔵宝鑰』の第九住心までを真言宗以外の僧侶も学ぶようにすれば、膨大な時間を費やさなくても、伝統的な仏教理解のエッセンスを、空海の理解にもとづいて容易に知ることができる。『秘蔵宝鑰』は、今こそ読まれるべき本である。」

というのが、論文の趣旨です。
14:44 弘法大師 空海 | コメント(0) | トラックバック(0)
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