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第15回現代仏教塾「チベットの浄土信仰」(吉村均)

2017/04/26
 先日、横浜市旭区の浄土真宗大谷派 高明寺・横浜聖地霊園でおこなった第15回現代仏教塾「チベットの浄土信仰」が、はやくもyoutubeにアップされていました。

講師:吉村均(中村元東方研究所)
日時:2017年4月16日(日)
  • チベットの伝統における浄土信仰
  • 仏の世界とは?
  • チベットの浄土信仰の裏づけとなる教え
  • チベットと日本の伝統における極楽浄土
  • 往生のためにもっとも重要なこと
  • 死の際の実践法①:ポワ
  • 死の際の実践法②:『チベットの死者の書』
  • 浄土はどこにあるか?
  • 自力/他力
  • 仏教思想における浄土信仰の位置



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チベットの仏教についてのよくある誤解(その3)

2017/04/14
 チベットの教えは、大乗仏教の流れに属していて、ことあるごとに利他が強調されます。教えを聞く時には、かならず先生が「菩提心をおこし、利他の動機で聞いてください」とおっしゃいますし、どんなささいな善行をおこなった時も、必ず一切衆生のために廻向するように、と教えられます。利他こそがチベットの伝統でもっとも重要なことであるかのようです。

  でも、そこにも実は落とし穴があります。(その2)で触れた前行の教えは、利他からスタートしてはいません。一番最初の教えは「人身の得がたさ」、自分が今、人間として生まれて教えを受けていることが、いかに得がたい幸運であるかを理解すること、です。
 自分の大切さ、かけがえのなさを理解することと、利他の教えは、一見、矛盾しているように見えるかもしれません。

  しかし、他の衆生を輪廻の苦しみから救うためには、自分自身が輪廻の苦しみから抜け出す方法を知っていなければなりません。そもそも、自分が輪廻を苦と理解していなくては、「一切衆生を輪廻の苦しみから救う」というのは、単なる言葉だけのものになってしまいます。

  無知こそが苦しみの真の原因で、一番よく知っているはずの自分自身について、その価値やかけがえのなさを知らないことが、一番大きな、気づきやすい無知です。まずそれを取り除くことからはじめなければ、自分が苦しみから解放されることも、他を苦しみから解放することもできません。

  仏教の実践は「道」であり、順番を間違えてしまうと、目的地にたどりつくどころか、かえって迷路の中を延々とさまようことになってしまいます。そのため、前行のような階梯的な教えを、信頼する師の指導のもとで学ぶことが大切なのです。

  仏教の教えを広めようと、多くの方が熱心に活動されています。私自身、そういう方々の恩恵を蒙っていますが、熱心に教えを広めようとされている方の中には、この人は仏教を広めたいのだろうか、仏教についての自分の考えを広めたいのだろうか、と疑問を感じる方もないわけではありません。

  無我の教えを広めたい人と、無我の教えを学びたい人は、まったくタイプが別、と感じることすらあります。

  西洋の哲学において、「カントの哲学」について語ることは、実際には「カントの哲学についての自分の解釈」を語ることです。そこに問題はありません。しかし、仏教、無我の教えはそれとはまったく性格が違います。「無我についての私の解釈」は「無我」とはまったくの別物です。

  大乗の伝統で、智慧と慈悲が鳥の両翼、車の両輪にたとえられてきたのは、そのためです。智慧を欠いた慈悲は、「溺れている人が他の溺れている人を救おうとするようなもの」「目が不自由な人が他の不自由な人の道案内をしようとするようなもの」といわれます。

  伝統的に、仏教を説くことのできる資格について厳しくいわれてきたのは、このような理由があるからです。

  たとえ、自分では、「仏教を広めよう」という意欲にあふれていたとしても、それが「私の仏教の解釈」であれば、自分の考えを他人に押し付けているだけで、自分自身も、導こうとしている相手も、真の無我に到達することはできません。それどころか、知らず知らずの内に自分の「我」を増長させ、「自分がすぐれた救済者で、劣った衆生どもを救ってやるのだ」というきわめて危険な方向に進んでしまう可能性すらあります。

  薬は、用い方を誤まれば、毒にもなります。

  チベットの伝統でいう「心の本質」、仏性ともいいますが、それは言葉で説明することはできず、それが一切衆生にそなわっていることが完全にわかるのは仏陀になった時だ、といいます(如来蔵)。では、そうなら、なぜ、そのような教えを説く意味があるのか、チベットの僧院教育で重視されてきた『宝性論』は、その理由のひとつとして、菩提心をおこした者が、衆生を劣った者として見ることを防ぐため、ということを挙げています。

  「心の本質」をさとることは無我を理解することと同義ですから、「私の心の本質」をさとるわけではなく、「心の本質」がわかれば、一切衆生に「心の本質」が備わっていることが(程度の差はあれ)見えるようになってきます。

  一切衆生に「心の本質」がそなわっていることが見えて、はじめてその取り出し方がわかるようになる、それが仏教における真の利他の道、菩薩の実践です。
 
チベット文化研究所で「基礎からわかるチベット仏教入門」を開催します(4月14日より)
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チベットの仏教についてのよくある誤解(その2)

2017/04/13
 チベットの伝統には、奥義とされるゾクチェンやマハームドラーと呼ばれる教えがあり、前行と呼ばれる段階と、本行と呼ばれる段階に分かれています。

  そうなると、前行は省略して、はやく本行を受けたい、と思うのが人情ですが、実はそこには落とし穴があります。
 前行の教えには、「人身の得がたさ」を理解することからはじまる四つの教え、帰依と菩提心、金剛薩埵の浄化法、マンダラ供養、師の智慧と一体になるグル・ヨーガの修行が含まれていますが、そこには仏陀の境地に至るための必要な教えがすべて含まれています。

  帰依と菩提心、罪を懺悔し浄化すること、功徳を積むこと、智慧を得ること以外に、仏教にするべきことはありません。実態からすれば、前行の教えは、「お徳用修行パック」というべきものなのです。
  チベット語でも前行はグンド=直訳すると前・行く ですが、もしかしたら、その重要性に自分で気づかせるために、わざとやる気がでないように前行という名前をつけたのでは、と思うことすらあります。

  では、前行と本行を分けるのは何か?

  ゾクチェンやマハームドラーは、「心の本質」の実践ですが、「心の本質」をわかっていない段階が前行で、「心の本質」をわかって実践するのが本行です。

  もしかしたら、前行をはじめようとする人の中には、「自分はもしかしたら、導きを受ければ直ちに「心の本質」を理解できるのでは。そんな自分が五十万回の前行をするのは、時間の無駄になってしまうのでは」と心配されている方もいらっしゃるかもしれません。
  でも、心配はいりません。(これはネタバラシになってしまうかもしれませんが)すべての前行の教えがそうなっているかどうかはわかりませんが、有名なある教えの体系の前行についていうと、修行法も唱えるお経も、もし修行者が「心の本質」をさとれば、修行法も唱えるお経の意味も、すべて本行の実践になるように作られています。ですから、回り道を経ることなく、「心の本質」をさとった段階で、ただちに本行にはいることができます。

  逆に、「心の本質」をまだ理解していない段階で本行の教えを受けたとしても、意味を正しく理解することは不可能ですし、実践することもできません。

  なぜなら、「心の本質」は言葉で説明することのできないもので、それをまださとっていない人がゾクチェンやマハームドラーの教えを聞いて、「心の本質」はこういうものだろうと想像しても、その「心の本質」のイメージは言葉で作られたものですから、それが言葉を超えた本当の「心の本質」に一致することは原理的にありえません。

  本行の実践法というのはありますが、それはすでに理解している「心の本質」にいかにとどまるか、という修行なので、まだ「心の本質」を知らない人がとどまり方を習って実践したとしても、時間の無駄にしかなりません。

  日本のチベット関係者のあいだでもゾクチェンは人気が高く、前行に対する本行の卓越性を強調される方もいますが、私は正直、疑問をもっています。

  私が受けた教えのなかである高僧は、「ゾクチェンの前行と本行で、重要なのは前行の方である」とはっきりおっしゃっていました。その方は、もうなくなられて今は生まれ変わりの少年が発見されていますが、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生だった方で、いくら日本の「ゾクチェン通」の方がゾクチェンに詳しいとしても、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生ほどでは、と思いますし、信じる・信じないはもちろん自由ですが、私はその方の教えに一切疑いを持っていません。

  「心の本質」は一切衆生にそなわっていますが、それは言葉で作られた概念(仏教語の「分別」)の層に厚くおおわれています。智慧を得る、とか功徳を積む、さとりを開く、という言い方をしますが、実際にはその分厚い層を削っていくのが仏教の勉強と修行で、それを最短距離でおこなうのが、前行の学習と実践なのです。
 
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チベットの仏教についてのよくある誤解(その1)

2017/04/12
 いきなりですが、日本仏教とは異なる「チベット仏教」なるものがあるわけではありませんし、「チベット仏教徒」がいるわけでもありません。

  チベットでは、三宝(仏・法・僧)に帰依しているのが仏教徒の定義ですが、「チベットのブッダ(仏)」や「チベットのダルマ(法)」があるわけではありません。チベットのお寺でお坊さんたちが仏教を学ぶ教科書は、ナーガールジュナ(龍樹)、アサンガ(無着)、チャンドラキールティ、シャーンティデーヴァといった、古代インドの高僧がたの著作です。

 仏教徒にとって最大の聖地は、お釈迦さまがさとりを開かれたインドのブッダガヤですが、そこにはさとりを開かれた場所に立てられたマハーボーディ寺院(西遊記の三蔵法師のモデルである中国の玄奘三蔵も、シルクロードを旅して、ここを訪れています)を中心に、日本寺、チベット寺、タイ寺、ブータン寺、中国寺など、世界各国の寺院が建てられています。寺院建築も仏像も、それぞれの国の様式で建てられ、特色がありますが、ブッダガヤに参詣する世界中の人は、「私はチベット人だからチベット寺に」ということはなく、どのお寺も同じように巡って参拝しています。

  サンガ(僧伽)の戒律というのも、お釈迦さまが定められたメンバー規約で、すでにメンバーになっている者から承認を受けると、世界のどこでも比丘・比丘尼として通用します。退会や除名(!)規定も、お釈迦さまが定められています。
  それぞれの道は、表面的には大きく違って見えることもあるかもしれませんが、理解が深まっていけば、同じ山頂を目指す道であることが理解できるようになる、それが仏教という「道」の特色です。


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ダライ・ラマ法王の『入菩薩行論』講義(二日目)

2016/06/06
二日連続して教えを受けて、ダライ・ラマ法王が常々おっしゃっている「ナーランダー僧院の伝統」ということが、すこし実感できたように思います。
ダライ・ラマ法王はナーガールジュナの仏教理解を完全にご自分のものにされていて、シャーンティデーヴァも同じ仏教理解に基づき、それをさらに実践的に詳しく説かれたものとして、『入菩薩行論』の内容を理解され、解説されています。
(昨日のまとめでは省略しましたが)昨日の教えで、法王は『中論』十八章、二四章だけでなく、ナーガールジュナ『友人への手紙(勧誡王頌)』の次の偈を引用されていました。

「真理(法)をさとった人びとといえども、天から降りてきたのでもなく、穀物のように地のなかから現出したのでもありません。彼らは煩悩に依存した愚か者の以前の状態を捨て去ったとき(あらわれるのです)。」116偈

苦しみをなくしたい、仏陀の境地を得たいという時に、単になくしたい、得たいと祈っているだけでは何にもならず、何が苦しみの原因か、何が仏陀の境地の因なのかを知り、実践しなければなりません。
このように、理論的な考えにもとづいて考察をおこない、実践していくことが、ナーランダーの伝統の特色です。

(昨日の『中論』十八章の引用で説かれていたように)苦しみの原因は、対象をその通りの実体があると捉える、間違った捉え方で、それに基づいて煩悩が生じ、悪しきおこないをなします。ですから苦しみは空性を理解する智慧を得ること(「空によって」あるいは「空の中に」)によってなくなりますが、空性を実際に体験するためには、対象をよく分析して、対象にそう見えるような実体がないことを確信し、その境地に一点集中の瞑想をおこなう必要があります。
今日、解説されたのは『入菩薩行論』四章~六章、(今回の解説では言及がありませんでしたが)チベットの有名なパトゥル・リンポチェの「宝の如き最高の菩提心、生じていないものには生じますように、生じたならば衰えることなく、ますます増大しますように」に重ね合わせた説明では、おこした菩提心が衰えることを防ぐための章とされている箇所で、
まだ空性を理解することによって煩悩を根本から断ち切ることはできず、怒りの有害性や、それをなくすことによって得られる利益をよく考えることによって、怒りを遠ざけ、煩悩の力を弱めていく段階にあたります。

今日の教えは、仏教の概説からはじまりました。

初転法輪の四聖諦(苦・集・滅・道)は、パーリ仏典に説かれ、仏教の基本となっています。
第二転法輪(無相法輪)と第三転法輪(分別法輪)の教えは、サンスクリット仏典に説かれ、滅諦と道諦について詳しく説かれています。
(釈尊は四聖諦を三通り説き方で説かれ(三転十二行相)、その二番目の
「苦しみを知りなさい。その原因(集)を滅しなさい。滅した境地を得なさい。道を実践しなさい」
に沿って教えがおこなわれました。)

苦しみには、苦苦(肉体的・精神的普通。私たちが通常考える苦しみ)・(粗い楽が苦に変質するという)壊苦・(すべてのものは苦の本質をもつという)行苦の3種類があり、苦苦は動物でも理解でき、壊苦は第四禅以上の非仏教の境地でも滅することができるもので、釈尊が「苦を知りなさい」と説かれたのは、主に行苦のことです。
その原因の根本は煩悩であり、煩悩は無明から生じているので、苦をなくすためには無明を晴らす必要があります。そのための実践道があり、それを実践してはじめて涅槃に至ることができるのです。
パーリ仏典には、四聖諦それぞれの4つの性質(四諦十六行相)が詳しく説かれています。
・苦諦:無常・苦・無我・空
・集諦:因・集・生・縁
・滅諦:滅・静・妙・離
・道諦:道・如・行・出

見解からいえば、仏教は
・一切皆空
・諸行無常
・諸法無我
・涅槃寂静
の四法印をそなえているのが仏教で、声聞乗の一部の「我」を認める学派は、見解に基づく仏教徒とはいえません。

仏陀の境地に至る実践は、三十七道品で、
・四念住(身念住・受念住・心念住・法念住)
・四正断(生じた悪を滅する・生じていない悪を生じないようにする・生じていない善を生じさせる・生じた善を増大させる)
・四神足
・五根
・五力
・七覚支
・八正道
これらを実践して正しいさとりに至ります。
 菩薩乗では、菩提心をおこし、空と結びつけて実践することで、仏陀の境地を目指します。

今日の『入菩薩行論』の解説は、三章の終わりの、毎日の菩提心生起のなかで唱える部分からはじまり、
四章(不放逸)では、煩悩の過失から心を守ることが説かれ、
五章(正知の守護)では、そのために注意深さ(憶念)と警戒心(正知)を結び合わせ、自分の身口意を見守ることが説かれています。この憶念と正知に初心者の段階から慣れ親しんでおくと、本格的な三学(戒・定・慧)の実践をおこなう際に、禅定(精神集中の修行。非仏教と共通)に役立つということでした。

また、五章30偈の「貫主(チベット語ではケンポ)が説いた教えによって」に関連して、正しい師と間違った師を見極めることの重要性が説かれ、正体を隠して女主人の使用人になっていた、というパトゥル・リンポチェのエピソードが紹介されました。ラムリムに、ラマの10の資格が説かれているそうです。

人間社会は欲望にまみれた社会であり、(自分が懺悔する際には、自分と悪いおこないを分離しているように)悪をなした人に対して、その人が悪いのではなく、煩悩が悪いのだと捉えることが重要であり(56偈)、このことは六章に詳しく説かれています。私たちは体、食物、住処など、肉体レベルの幸せを求めますが、59偈以降で、体に対する執着の対治が説かれています。

(会場で配られた日本語訳とは解釈が違うように思いますが)78偈では、逆境を道に変えることが説かれ、(これはダライ・ラマ法王が一般講演の質疑応答でよくアドバイスされることですが)ひどい状態を一つの角度から見るのではなく、様々な角度から見ることの重要性を話され、亡命によって世界中に友人ができ、ナーランダーの遺産を共有し、科学者との対話もできたというご自身の体験を話されました。

83偈では、六波羅蜜が布施・持戒…の順に、後のものほどすぐれた行で、その順に実践をおこない、小さなもののために大きなものを捨ててはならないということが説かれました。

六章(忍耐)では、怒りの過失を考え、忍耐の利益を考えることが説かれ、それによって忍耐の行を進めることができるようになります。19偈の「賢者は、苦しみが生じようとも、その心の純粋さは汚されない」に関連して、ご自身が(これはブッダガヤでカーラチャクラ灌頂が予定されていた時の話で、現場は大混乱でしたが)仏跡巡礼に行かれて体調を崩され(腸に穴があいていたそうです)、病院に運ばれる途中、貧しい子供や老人の姿を目にされ、激痛ではあったものの、彼らへの強い思いでさほど苦には感じられなかった、という体験を話されました(このエピソードは『素顔のダライ・ラマ』に詳しい)。

87偈以降が六章の後半部にあたり、私たちは敵がひどい目にあうと喜びを感じるが、それは自分を苦しめる因にしかならず、敵は自分を高める機会を与えてくれる恩深い存在であり、私たちは衆生と仏陀に依存してさとりを得るのであり(仏陀が教えを説かなければ、仏陀の境地を目指すことはなく、同様に衆生がいなければ、一切衆生のために仏陀の境地を目指すということが成り立たない)、その意味で仏陀と衆生は同じくありがたい存在であることが説かれています。

(昨日の教えのなかでたしか触れられていたように思いますが、「世間のあらゆる楽、それらすべては他者に楽を望むことで生じ、世間のあらゆる苦、それらすべては自分に楽を望むことで生じる」(八章129偈)に向かって、少しずつ、事象をよく考え、心を訓練していくことで、今日の教えは終わりました。)

2日目午前


2日目午後
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