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シンポジウム 「仏法はどう日本社会の為に役立つか」映像

2017/11/28
2015年11月15日に、東京・大手町のサンケイプラザ4Fホールでおこなわれた、シンポジウム「仏法はどう日本社会の為に役立つか」(佛教如何帮助日本社会)の映像が公開されています。
http://www.zhibeifw.com/cmsc/list.php?fid=1054
(日本人の発言には中国語の字幕、ケンポのお話は中国語で、当日の通訳の日本語が収録されています。各映像の冒頭に、短いCMがはいります)
これは、世界最大の仏教寺院といわれる東チベットのラルンガル(NHK・BS「天空の“ 宗教都市”~チベット仏教・紅の信仰の世界~」で紹介されました)の指導者のおひとりである、ケンポ・ソダジ(Khenpo Sodargye 、索達吉堪布)師が来日された際におこなわれたものです。
吉村も司会者兼提題の一人として参加させていただきました。
その際のケンポのお話のメモを掲載します(これはオフィシャルなものではなく、私の私的なメモです。正確な内容は映像でご確認ください)

仏教とはどういうものかについて、簡単に。悪をなさず、善をなすことの教育。
仏法には理論(聖教の法)と実践(証得の法)の二種類(インド・ナーランダー僧院出身の僧、世親の言葉)。その両方を備えなければ仏教ではない。
日本に来てさまざまな人と会い、話をして、日本仏教、考え直す必要あると考えている。
仏法、これからどう日本の社会に役立つか、考える意義。
538年に朝鮮をへて仏教伝来。
聖徳太子が法華経・唯摩経・勝鬘経を講義(三経義疏)。仏教を国教に(十七条憲法)。
200年後、鑑真、何度もの失敗をへて、中国に伝わっている比丘の戒律(四分律)伝える。
その後、親鸞などあらわれ、歴史のなかで、現在の日本では葬式仏教のように思われている。
アメリカの雑誌で日本の仏教についての報道見ておどろき、誇張ではと思ったが、日本に着てみると、実際そのように。
ニューヨークタイムズの報道によると、日本では、寺院が急激に減ってきている。1年で100くらいの寺院がなくなっている。10年前は30パーセントが葬儀場で葬儀をおこなっていたが、現在は逆転して、30パーセントが寺院で葬儀。
日本では仏教徒減少、世界全体でも宗教を信仰する者減少してきている。
仏教も衰退してきて、いつ滅ぶかわからないが、出家にも在家にも、それを復興させようという動きも。
日本人は素質高い、強い国なので、仏教を盛んにさせることむつかしくないのでは。
日本の伝統、文化、歴史を尊重する必要。それらを尊重した上で、次のことを付け加えるとよいと思う。
仏教の戒・定・慧の3つの面からいうと
戒:
日本では中国やチベットのように比丘戒を受けるのはむつかしいのかもしれないが、すくなくとも僧侶は三帰依(仏・法・僧の三宝への帰依の誓い)と五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒)を受けるべきと思う。それがなければ、これから尊敬、供養される対象にならないのでは。
将来、状況がそろえば、日本の各宗派の高僧があつまって話し合い、三帰五戒を受けるようにするとよい。
在家も、居士の五戒を受けた方がいい。自分の状況におうじて、すべて受けることができなければ、そのなかから、殺生戒など自分で可能なものを。それも無理なら、三帰依のみでも受けたほうがよい。
日本人はもともとルールを守る民族なので、戒律を守るのはそれほどむつかしくないと思う。今は、それを教える人がいないだけで、授けるようにすれば、可能。
定:
出家だけでなく在家でも瞑想、止(一転集中)必要。1年に100日、それが無理なら1か月、それも無理なら1週間でも、お籠もり修行必要。「定」がなければ人は、心乱れて何にもならない。
日本には坐禅の教えあるが、あまり一般には普及していないようなので、状況に応じて瞑想修行するようにするとよいと思う。
自分の所属する五明仏学院は、紹介のあったように世界最大の仏教寺院で、以前はなかったが、近年はすべての人が2週間程度、きびしい籠もり修行をするように。
修行できなければ心のコントロールできない。
在家も出家も、修行したほうがよいというのが、私からの提案。
慧:
仏教では、長期的な勉強が必要。寺院では経典・論典教える必要あるとされている。
在家の人も体系的な勉強必要。勉強ないと、やっていることが仏法にならない。教えに反することに。
日本にきて、さまざまな学者と交流。チベット語堪能な専門家もおおく、それはすばらしい。しかし智慧が足りないなら、それは残念なこと。
日本のような小さな島国が高度な技術もち、カメラなど、世界のトップに。よい製品つくっている。世俗の知恵、出世間の智慧も得ることできる、と私は信じている。
日本人、世俗についてはすでに問題ない。ただし、日本の仏教は、外国の人に笑われたり、海外でいろいろな評判を聞くことも。
自分の考えでは、位牌をどう置くかとかいう形の問題はさほど重要ではなく、智慧と教育が大切。
こどもが小さいことから仏教に基づいた教育を受け、同時に知識も学ぶことを考えるべき。
できることは自分でやる必要。ここに集まった皆さんにも責任。直せることなら治せば、大きなメリット得られる。
自分は中国で仏教教えているが、なぜ彼らが仏教信じているかを考えると、それによって心が変わったから。
一緒に勉強すること大切。自分が聞いたのは、真言宗では大日経を大切にしていて、チベットと共通点。たくさんの僧侶も勉強に真面目で、さらに戒・定・慧の三つの面から実践するようにすれば、とてもすばらしいと思う。

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23:28 日本仏教とチベット仏教 | コメント(0) | トラックバック(0)

第15回現代仏教塾「チベットの浄土信仰」(吉村均)

2017/04/26
 先日、横浜市旭区の浄土真宗大谷派 高明寺・横浜聖地霊園でおこなった第15回現代仏教塾「チベットの浄土信仰」が、はやくもyoutubeにアップされていました。

講師:吉村均(中村元東方研究所)
日時:2017年4月16日(日)
  • チベットの伝統における浄土信仰
  • 仏の世界とは?
  • チベットの浄土信仰の裏づけとなる教え
  • チベットと日本の伝統における極楽浄土
  • 往生のためにもっとも重要なこと
  • 死の際の実践法①:ポワ
  • 死の際の実践法②:『チベットの死者の書』
  • 浄土はどこにあるか?
  • 自力/他力
  • 仏教思想における浄土信仰の位置



20:55 浄土 | コメント(0) | トラックバック(0)

チベットの仏教についてのよくある誤解(その3)

2017/04/14
 チベットの教えは、大乗仏教の流れに属していて、ことあるごとに利他が強調されます。教えを聞く時には、かならず先生が「菩提心をおこし、利他の動機で聞いてください」とおっしゃいますし、どんなささいな善行をおこなった時も、必ず一切衆生のために廻向するように、と教えられます。利他こそがチベットの伝統でもっとも重要なことであるかのようです。

  でも、そこにも実は落とし穴があります。(その2)で触れた前行の教えは、利他からスタートしてはいません。一番最初の教えは「人身の得がたさ」、自分が今、人間として生まれて教えを受けていることが、いかに得がたい幸運であるかを理解すること、です。
 自分の大切さ、かけがえのなさを理解することと、利他の教えは、一見、矛盾しているように見えるかもしれません。

  しかし、他の衆生を輪廻の苦しみから救うためには、自分自身が輪廻の苦しみから抜け出す方法を知っていなければなりません。そもそも、自分が輪廻を苦と理解していなくては、「一切衆生を輪廻の苦しみから救う」というのは、単なる言葉だけのものになってしまいます。

  無知こそが苦しみの真の原因で、一番よく知っているはずの自分自身について、その価値やかけがえのなさを知らないことが、一番大きな、気づきやすい無知です。まずそれを取り除くことからはじめなければ、自分が苦しみから解放されることも、他を苦しみから解放することもできません。

  仏教の実践は「道」であり、順番を間違えてしまうと、目的地にたどりつくどころか、かえって迷路の中を延々とさまようことになってしまいます。そのため、前行のような階梯的な教えを、信頼する師の指導のもとで学ぶことが大切なのです。

  仏教の教えを広めようと、多くの方が熱心に活動されています。私自身、そういう方々の恩恵を蒙っていますが、熱心に教えを広めようとされている方の中には、この人は仏教を広めたいのだろうか、仏教についての自分の考えを広めたいのだろうか、と疑問を感じる方もないわけではありません。

  無我の教えを広めたい人と、無我の教えを学びたい人は、まったくタイプが別、と感じることすらあります。

  西洋の哲学において、「カントの哲学」について語ることは、実際には「カントの哲学についての自分の解釈」を語ることです。そこに問題はありません。しかし、仏教、無我の教えはそれとはまったく性格が違います。「無我についての私の解釈」は「無我」とはまったくの別物です。

  大乗の伝統で、智慧と慈悲が鳥の両翼、車の両輪にたとえられてきたのは、そのためです。智慧を欠いた慈悲は、「溺れている人が他の溺れている人を救おうとするようなもの」「目が不自由な人が他の不自由な人の道案内をしようとするようなもの」といわれます。

  伝統的に、仏教を説くことのできる資格について厳しくいわれてきたのは、このような理由があるからです。

  たとえ、自分では、「仏教を広めよう」という意欲にあふれていたとしても、それが「私の仏教の解釈」であれば、自分の考えを他人に押し付けているだけで、自分自身も、導こうとしている相手も、真の無我に到達することはできません。それどころか、知らず知らずの内に自分の「我」を増長させ、「自分がすぐれた救済者で、劣った衆生どもを救ってやるのだ」というきわめて危険な方向に進んでしまう可能性すらあります。

  薬は、用い方を誤まれば、毒にもなります。

  チベットの伝統でいう「心の本質」、仏性ともいいますが、それは言葉で説明することはできず、それが一切衆生にそなわっていることが完全にわかるのは仏陀になった時だ、といいます(如来蔵)。では、そうなら、なぜ、そのような教えを説く意味があるのか、チベットの僧院教育で重視されてきた『宝性論』は、その理由のひとつとして、菩提心をおこした者が、衆生を劣った者として見ることを防ぐため、ということを挙げています。

  「心の本質」をさとることは無我を理解することと同義ですから、「私の心の本質」をさとるわけではなく、「心の本質」がわかれば、一切衆生に「心の本質」が備わっていることが(程度の差はあれ)見えるようになってきます。

  一切衆生に「心の本質」がそなわっていることが見えて、はじめてその取り出し方がわかるようになる、それが仏教における真の利他の道、菩薩の実践です。
 
チベット文化研究所で「基礎からわかるチベット仏教入門」を開催します(4月14日より)
お問い合わせ・ご予約等はチベット文化研究所まで
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チベットの仏教についてのよくある誤解(その2)

2017/04/13
 チベットの伝統には、奥義とされるゾクチェンやマハームドラーと呼ばれる教えがあり、前行と呼ばれる段階と、本行と呼ばれる段階に分かれています。

  そうなると、前行は省略して、はやく本行を受けたい、と思うのが人情ですが、実はそこには落とし穴があります。
 前行の教えには、「人身の得がたさ」を理解することからはじまる四つの教え、帰依と菩提心、金剛薩埵の浄化法、マンダラ供養、師の智慧と一体になるグル・ヨーガの修行が含まれていますが、そこには仏陀の境地に至るための必要な教えがすべて含まれています。

  帰依と菩提心、罪を懺悔し浄化すること、功徳を積むこと、智慧を得ること以外に、仏教にするべきことはありません。実態からすれば、前行の教えは、「お徳用修行パック」というべきものなのです。
  チベット語でも前行はグンド=直訳すると前・行く ですが、もしかしたら、その重要性に自分で気づかせるために、わざとやる気がでないように前行という名前をつけたのでは、と思うことすらあります。

  では、前行と本行を分けるのは何か?

  ゾクチェンやマハームドラーは、「心の本質」の実践ですが、「心の本質」をわかっていない段階が前行で、「心の本質」をわかって実践するのが本行です。

  もしかしたら、前行をはじめようとする人の中には、「自分はもしかしたら、導きを受ければ直ちに「心の本質」を理解できるのでは。そんな自分が五十万回の前行をするのは、時間の無駄になってしまうのでは」と心配されている方もいらっしゃるかもしれません。
  でも、心配はいりません。(これはネタバラシになってしまうかもしれませんが)すべての前行の教えがそうなっているかどうかはわかりませんが、有名なある教えの体系の前行についていうと、修行法も唱えるお経も、もし修行者が「心の本質」をさとれば、修行法も唱えるお経の意味も、すべて本行の実践になるように作られています。ですから、回り道を経ることなく、「心の本質」をさとった段階で、ただちに本行にはいることができます。

  逆に、「心の本質」をまだ理解していない段階で本行の教えを受けたとしても、意味を正しく理解することは不可能ですし、実践することもできません。

  なぜなら、「心の本質」は言葉で説明することのできないもので、それをまださとっていない人がゾクチェンやマハームドラーの教えを聞いて、「心の本質」はこういうものだろうと想像しても、その「心の本質」のイメージは言葉で作られたものですから、それが言葉を超えた本当の「心の本質」に一致することは原理的にありえません。

  本行の実践法というのはありますが、それはすでに理解している「心の本質」にいかにとどまるか、という修行なので、まだ「心の本質」を知らない人がとどまり方を習って実践したとしても、時間の無駄にしかなりません。

  日本のチベット関係者のあいだでもゾクチェンは人気が高く、前行に対する本行の卓越性を強調される方もいますが、私は正直、疑問をもっています。

  私が受けた教えのなかである高僧は、「ゾクチェンの前行と本行で、重要なのは前行の方である」とはっきりおっしゃっていました。その方は、もうなくなられて今は生まれ変わりの少年が発見されていますが、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生だった方で、いくら日本の「ゾクチェン通」の方がゾクチェンに詳しいとしても、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生ほどでは、と思いますし、信じる・信じないはもちろん自由ですが、私はその方の教えに一切疑いを持っていません。

  「心の本質」は一切衆生にそなわっていますが、それは言葉で作られた概念(仏教語の「分別」)の層に厚くおおわれています。智慧を得る、とか功徳を積む、さとりを開く、という言い方をしますが、実際にはその分厚い層を削っていくのが仏教の勉強と修行で、それを最短距離でおこなうのが、前行の学習と実践なのです。
 
チベット文化研究所で「基礎からわかるチベット仏教入門」を開催します(4月14日より)
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チベットの仏教についてのよくある誤解(その1)

2017/04/12
 いきなりですが、日本仏教とは異なる「チベット仏教」なるものがあるわけではありませんし、「チベット仏教徒」がいるわけでもありません。

  チベットでは、三宝(仏・法・僧)に帰依しているのが仏教徒の定義ですが、「チベットのブッダ(仏)」や「チベットのダルマ(法)」があるわけではありません。チベットのお寺でお坊さんたちが仏教を学ぶ教科書は、ナーガールジュナ(龍樹)、アサンガ(無着)、チャンドラキールティ、シャーンティデーヴァといった、古代インドの高僧がたの著作です。

 仏教徒にとって最大の聖地は、お釈迦さまがさとりを開かれたインドのブッダガヤですが、そこにはさとりを開かれた場所に立てられたマハーボーディ寺院(西遊記の三蔵法師のモデルである中国の玄奘三蔵も、シルクロードを旅して、ここを訪れています)を中心に、日本寺、チベット寺、タイ寺、ブータン寺、中国寺など、世界各国の寺院が建てられています。寺院建築も仏像も、それぞれの国の様式で建てられ、特色がありますが、ブッダガヤに参詣する世界中の人は、「私はチベット人だからチベット寺に」ということはなく、どのお寺も同じように巡って参拝しています。

  サンガ(僧伽)の戒律というのも、お釈迦さまが定められたメンバー規約で、すでにメンバーになっている者から承認を受けると、世界のどこでも比丘・比丘尼として通用します。退会や除名(!)規定も、お釈迦さまが定められています。
  それぞれの道は、表面的には大きく違って見えることもあるかもしれませんが、理解が深まっていけば、同じ山頂を目指す道であることが理解できるようになる、それが仏教という「道」の特色です。


チベット文化研究所で「基礎からわかるチベット仏教入門」を開催します(4月14日より)
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