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チベットの仏教についてのよくある誤解(その3)

2017/04/14
 チベットの教えは、大乗仏教の流れに属していて、ことあるごとに利他が強調されます。教えを聞く時には、かならず先生が「菩提心をおこし、利他の動機で聞いてください」とおっしゃいますし、どんなささいな善行をおこなった時も、必ず一切衆生のために廻向するように、と教えられます。利他こそがチベットの伝統でもっとも重要なことであるかのようです。

  でも、そこにも実は落とし穴があります。(その2)で触れた前行の教えは、利他からスタートしてはいません。一番最初の教えは「人身の得がたさ」、自分が今、人間として生まれて教えを受けていることが、いかに得がたい幸運であるかを理解すること、です。
 自分の大切さ、かけがえのなさを理解することと、利他の教えは、一見、矛盾しているように見えるかもしれません。

  しかし、他の衆生を輪廻の苦しみから救うためには、自分自身が輪廻の苦しみから抜け出す方法を知っていなければなりません。そもそも、自分が輪廻を苦と理解していなくては、「一切衆生を輪廻の苦しみから救う」というのは、単なる言葉だけのものになってしまいます。

  無知こそが苦しみの真の原因で、一番よく知っているはずの自分自身について、その価値やかけがえのなさを知らないことが、一番大きな、気づきやすい無知です。まずそれを取り除くことからはじめなければ、自分が苦しみから解放されることも、他を苦しみから解放することもできません。

  仏教の実践は「道」であり、順番を間違えてしまうと、目的地にたどりつくどころか、かえって迷路の中を延々とさまようことになってしまいます。そのため、前行のような階梯的な教えを、信頼する師の指導のもとで学ぶことが大切なのです。

  仏教の教えを広めようと、多くの方が熱心に活動されています。私自身、そういう方々の恩恵を蒙っていますが、熱心に教えを広めようとされている方の中には、この人は仏教を広めたいのだろうか、仏教についての自分の考えを広めたいのだろうか、と疑問を感じる方もないわけではありません。

  無我の教えを広めたい人と、無我の教えを学びたい人は、まったくタイプが別、と感じることすらあります。

  西洋の哲学において、「カントの哲学」について語ることは、実際には「カントの哲学についての自分の解釈」を語ることです。そこに問題はありません。しかし、仏教、無我の教えはそれとはまったく性格が違います。「無我についての私の解釈」は「無我」とはまったくの別物です。

  大乗の伝統で、智慧と慈悲が鳥の両翼、車の両輪にたとえられてきたのは、そのためです。智慧を欠いた慈悲は、「溺れている人が他の溺れている人を救おうとするようなもの」「目が不自由な人が他の不自由な人の道案内をしようとするようなもの」といわれます。

  伝統的に、仏教を説くことのできる資格について厳しくいわれてきたのは、このような理由があるからです。

  たとえ、自分では、「仏教を広めよう」という意欲にあふれていたとしても、それが「私の仏教の解釈」であれば、自分の考えを他人に押し付けているだけで、自分自身も、導こうとしている相手も、真の無我に到達することはできません。それどころか、知らず知らずの内に自分の「我」を増長させ、「自分がすぐれた救済者で、劣った衆生どもを救ってやるのだ」というきわめて危険な方向に進んでしまう可能性すらあります。

  薬は、用い方を誤まれば、毒にもなります。

  チベットの伝統でいう「心の本質」、仏性ともいいますが、それは言葉で説明することはできず、それが一切衆生にそなわっていることが完全にわかるのは仏陀になった時だ、といいます(如来蔵)。では、そうなら、なぜ、そのような教えを説く意味があるのか、チベットの僧院教育で重視されてきた『宝性論』は、その理由のひとつとして、菩提心をおこした者が、衆生を劣った者として見ることを防ぐため、ということを挙げています。

  「心の本質」をさとることは無我を理解することと同義ですから、「私の心の本質」をさとるわけではなく、「心の本質」がわかれば、一切衆生に「心の本質」が備わっていることが(程度の差はあれ)見えるようになってきます。

  一切衆生に「心の本質」がそなわっていることが見えて、はじめてその取り出し方がわかるようになる、それが仏教における真の利他の道、菩薩の実践です。
 
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チベットの仏教についてのよくある誤解(その2)

2017/04/13
 チベットの伝統には、奥義とされるゾクチェンやマハームドラーと呼ばれる教えがあり、前行と呼ばれる段階と、本行と呼ばれる段階に分かれています。

  そうなると、前行は省略して、はやく本行を受けたい、と思うのが人情ですが、実はそこには落とし穴があります。
 前行の教えには、「人身の得がたさ」を理解することからはじまる四つの教え、帰依と菩提心、金剛薩埵の浄化法、マンダラ供養、師の智慧と一体になるグル・ヨーガの修行が含まれていますが、そこには仏陀の境地に至るための必要な教えがすべて含まれています。

  帰依と菩提心、罪を懺悔し浄化すること、功徳を積むこと、智慧を得ること以外に、仏教にするべきことはありません。実態からすれば、前行の教えは、「お徳用修行パック」というべきものなのです。
  チベット語でも前行はグンド=直訳すると前・行く ですが、もしかしたら、その重要性に自分で気づかせるために、わざとやる気がでないように前行という名前をつけたのでは、と思うことすらあります。

  では、前行と本行を分けるのは何か?

  ゾクチェンやマハームドラーは、「心の本質」の実践ですが、「心の本質」をわかっていない段階が前行で、「心の本質」をわかって実践するのが本行です。

  もしかしたら、前行をはじめようとする人の中には、「自分はもしかしたら、導きを受ければ直ちに「心の本質」を理解できるのでは。そんな自分が五十万回の前行をするのは、時間の無駄になってしまうのでは」と心配されている方もいらっしゃるかもしれません。
  でも、心配はいりません。(これはネタバラシになってしまうかもしれませんが)すべての前行の教えがそうなっているかどうかはわかりませんが、有名なある教えの体系の前行についていうと、修行法も唱えるお経も、もし修行者が「心の本質」をさとれば、修行法も唱えるお経の意味も、すべて本行の実践になるように作られています。ですから、回り道を経ることなく、「心の本質」をさとった段階で、ただちに本行にはいることができます。

  逆に、「心の本質」をまだ理解していない段階で本行の教えを受けたとしても、意味を正しく理解することは不可能ですし、実践することもできません。

  なぜなら、「心の本質」は言葉で説明することのできないもので、それをまださとっていない人がゾクチェンやマハームドラーの教えを聞いて、「心の本質」はこういうものだろうと想像しても、その「心の本質」のイメージは言葉で作られたものですから、それが言葉を超えた本当の「心の本質」に一致することは原理的にありえません。

  本行の実践法というのはありますが、それはすでに理解している「心の本質」にいかにとどまるか、という修行なので、まだ「心の本質」を知らない人がとどまり方を習って実践したとしても、時間の無駄にしかなりません。

  日本のチベット関係者のあいだでもゾクチェンは人気が高く、前行に対する本行の卓越性を強調される方もいますが、私は正直、疑問をもっています。

  私が受けた教えのなかである高僧は、「ゾクチェンの前行と本行で、重要なのは前行の方である」とはっきりおっしゃっていました。その方は、もうなくなられて今は生まれ変わりの少年が発見されていますが、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生だった方で、いくら日本の「ゾクチェン通」の方がゾクチェンに詳しいとしても、ダライ・ラマ法王のゾクチェンの先生ほどでは、と思いますし、信じる・信じないはもちろん自由ですが、私はその方の教えに一切疑いを持っていません。

  「心の本質」は一切衆生にそなわっていますが、それは言葉で作られた概念(仏教語の「分別」)の層に厚くおおわれています。智慧を得る、とか功徳を積む、さとりを開く、という言い方をしますが、実際にはその分厚い層を削っていくのが仏教の勉強と修行で、それを最短距離でおこなうのが、前行の学習と実践なのです。
 
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チベットの仏教についてのよくある誤解(その1)

2017/04/12
 いきなりですが、日本仏教とは異なる「チベット仏教」なるものがあるわけではありませんし、「チベット仏教徒」がいるわけでもありません。

  チベットでは、三宝(仏・法・僧)に帰依しているのが仏教徒の定義ですが、「チベットのブッダ(仏)」や「チベットのダルマ(法)」があるわけではありません。チベットのお寺でお坊さんたちが仏教を学ぶ教科書は、ナーガールジュナ(龍樹)、アサンガ(無着)、チャンドラキールティ、シャーンティデーヴァといった、古代インドの高僧がたの著作です。

 仏教徒にとって最大の聖地は、お釈迦さまがさとりを開かれたインドのブッダガヤですが、そこにはさとりを開かれた場所に立てられたマハーボーディ寺院(西遊記の三蔵法師のモデルである中国の玄奘三蔵も、シルクロードを旅して、ここを訪れています)を中心に、日本寺、チベット寺、タイ寺、ブータン寺、中国寺など、世界各国の寺院が建てられています。寺院建築も仏像も、それぞれの国の様式で建てられ、特色がありますが、ブッダガヤに参詣する世界中の人は、「私はチベット人だからチベット寺に」ということはなく、どのお寺も同じように巡って参拝しています。

  サンガ(僧伽)の戒律というのも、お釈迦さまが定められたメンバー規約で、すでにメンバーになっている者から承認を受けると、世界のどこでも比丘・比丘尼として通用します。退会や除名(!)規定も、お釈迦さまが定められています。
  それぞれの道は、表面的には大きく違って見えることもあるかもしれませんが、理解が深まっていけば、同じ山頂を目指す道であることが理解できるようになる、それが仏教という「道」の特色です。


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やさしい心を育てる(3) 空を理解する—何のために・どうやって

2014/02/26
【空、無我と慈悲の教えの関係】
 仏教の空や無我の教えは、インドの他の宗教や、西洋社会において、虚無論とみなされてきました。なかでも一切が空であると説く中観派は、仏教内部からすら、虚無論と批判されることがありました。
 よく出される疑問として、「一切が空なら衆生も空であることになり、慈悲の教えと矛盾するのでは?」というものがあります。これは誤解です。私たちは他の人や生き物について、かわいそうという気持ちを持つことはありますが、自分自身の怪我や悩みであれば、ちょっとの傷でも耐え難かったり、夜も眠ることができなかったりするのに、他者の苦しみや痛みをそのように感じることはまずありません。無関心だったり、それが自分の敵であれば、「ざまぁみろ」と喜ぶことすらあります。
 他への慈悲の気持ちを妨げているのは、自分と他人を分け、自分を中心に捉える心のあり方、仏教でいう「我執」です。ですから実際には、空、無我の理解が深まれば深まるほど、他への慈悲の思いも強くなり、慈悲の思いが強ければ強いほど、空や無我の理解も容易になります。仏陀の境地を目指すことにおいて、空性(空であること)の理解と、一切衆生への偏りのない慈悲およびそれに基づく菩提心は、車の両輪のような関係にある、と言われます。
【「我思う、故に我有り」はなぜ問題か?】
 次によく出される疑問として、「どう考えても私はある、それを空、ないということには納得がいかない」というものがあります。デカルトは、「我思う、故に我有り」と言いました。すべての存在を疑うとしても、今それを考えている私が存在することは疑うことができない、したがって、私は存在する、と結論づけたのです。これにはどのような問題があるのでしょうか。
 まず、仏教が説いているのは、現に今こうやって考え、生きていると実感があるのに、それを否定して、私を無いもののように思い込みなさい、ということではありません。それでは虚無論になってしまいます。一切が空であると説く中観派の祖とされるインドのナーガールジュナ(龍樹)も、虚無論が道徳否定の間違った教えであるということを、仏教の中の実在論者との議論の前提としています。

「すべての過誤が生ずる根拠である無をともかくすでに排除しているとしたら、正理をもって有をも排除しなければならぬ。そこで汝はそれを聞け。」『六十頌如理論』

 では、仏教の無我や空の教えは本当はどういう意味で、「我思う、故に我有り」はどこに問題があるのでしょうか。
 無我や空の教えは実感とは相容れないため、それを人々に理解させることは容易ではありません。釈尊は巧みな比喩を用いられ、私たちの心の働きの問題点を、誰もが納得いくように示されています。それは「群盲象を撫でる」という喩えです。「ある王様が象を飼っていて、それを目の不自由な人たちに触らせませした。頭を触った人は「象は甕のようなものだ」、鼻を触った人は長い「轅のようなものだ」、耳を触った人は「笊のようなものだ」、足を触った人は「柱のようなものだ」と言い出し、「私が正しい、お前は間違っている」と喧嘩になってしまいました」。
 これは直接には、インドの他の宗教家たちの問題点についての喩えです。彼らは思索や瞑想などによって宗教体験をし、これこそが真理だ、これが悟りだ、と考え、「私は真理を悟っている。お前は間違っている」と論争していました。それに対して釈尊は、そういう形で語られるものは真理ではないし、そのような議論は苦しみからの解放に役立たない、と退けられたのです(中村元編『原始仏典』筑摩書房、参照)。
 象の頭を触って、それが固くて大きく、甕のようだと感じることは、間違いではありません。しかしだからといって、「象は甕のようなものだ」と結論づけたら、見当違いですよね? 宗教家たちが何らかの神秘的な体験をしたのは本当だったのでしょう。彼らの間違いは、そこから「これこそが真理だ」という結論を導き出したことにありました。
 これは、宗教家だけでなく、私たちの日常の考え方にも当てはまります。私たちは、ある人に嫌なことをされたら、「嫌な奴だ」と認識し、次に顔を合わせたら顔を見ただけで、あるいはその人のことが頭に浮かんだだけでも、とても嫌な気持ちになります。私たちはそれを、その人が嫌な奴だからだ、と考えます。でもそれは、象の頭を触って甕のように感じた、だから象は甕のようなものだ、と言っているのとまったく同じです。仏教が、無明が苦を作り出す、と説くのは、こういう心の働きのことを言っているのです。「我思う」と「我有り」についても同様です。
【空、無我を理解する方法】
 ですから、苦しみからの解決方法、真の悟りは、自分の間違いに気づくこと、それ以外にありません。象の頭を触って甕のようだと感じることは間違いではないこと、しかしそこから「象は甕のようなものだ」と結論を出すのは間違いだと気づくこと、これが仏教の二諦(二つの真理。世俗諦=相対的な真理と勝義諦=究極の真理)です。
 それは一言で言えば、物事を正しく見るということで、象の頭を触って固くて大きいという感触を味わっているのに、象などどこにもいないと思い込むこと(虚無論)とはまったく違います。
 仏教できわめて危険なのは、空や無我という言葉を知ることが、仏教をわかることだと思ってしまうことです。空や無我について本を読んで沢山の知識を持つことと、空や無我を理解することは、まったく違います(空論者は救いがたいと『中論』十二章でも説かれています)。
 釈尊は、先程のような状況のなかで、「これこれが真理だ」と主張すること(分類して六十二見と言われ、大別すると実在論=有の立場か虚無論=無の立場のいずれかになります)は苦しみからの解放の役に立たない(私が説く教えではない)と言い、苦しみからの解放に役立つ教え、私が説く教えとして、苦しみと苦しみの原因と苦しみを滅した境地とそれに至る実践の四つの真理(四聖諦)や、無明から、生まれ、老い死ぬという苦しみに至る十二の段階(十二支縁起)について説かれました。
 しかし、四聖諦や十二支縁起について知識を持つことと、それを真に理解することとは、まったく違います。釈尊は十二支縁起を理解することは難しいと繰り返し説き、「私にはやさしく感じられる」と言った弟子のアーナンダ(阿難)に対して、十二支縁起は深遠であり、それを理解していないゆえに人々は苦しみにあるのだ、という説き方をされました。もしアーナンダが苦しみを味わっているのであれば、自分の理解が間違っていることに気づくでしょう。自分自身で気づくことを促すこと、それが釈尊の教え方なのです。子供を亡くして狂乱している母親(クリシャゴータミー)に、死者を出したことのない家から芥子粒を貰ってきなさい、と説いたのも同じ教え方です。
 ナーガールジュナの『中論』が分かりにくいのは、空について説明した書ではなく、読み手が自分の間違った考えに気づくこと、空を真に理解することを目指した、導きの書だからです。釈尊の教えについて豊富な知識を持ち、それを理論化することが教えを理解することだと思っている者たちに対して、ナーガールジュナはその思い込みをひとつひとつ打ち壊していき、では真理とはどのようなもので、それにどのように到達するのかと聞き返されて、答えた章とされるのが十八章です(チャンドラキールティの解釈による)。そこでナーガールジュナは、「(五)蘊が私か、(五)蘊を離れた私があるか」考えなさい、と説きます。私の体はある、私は感じている、私は考えている、だから私は有るのだ(「我思う、故に我有り」)と信じて疑っていなかったのに、いざ探してみるとどこにも「私」を見つけ出すことができない、それに自分自身が気づいた時、それが本当の悟りであり真理であるのです。

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やさしい心を育てる(2) 慈悲の心と自分の幸せ

2014/02/25
【仏教は無我思想か?】
 仏教は無我の思想だとよく言われますが、これは誤解を招きやすい言い方だと思います。伝統的な仏教理解では、釈尊は一律の教義を説いたのではなく、相手に合わせて異なる教えを説いたとされています。ナーガールジュナ(龍樹)も『中論』の中で「もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている」(18章6偈)と述べています。
 これは場当たり的に適当なことを述べるというのではありません。仏教は、「私」を手がかりとして私を越えていく、巧みな方便を用いる教えなのです。
【利他の心で自分が幸せになる】
 チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ法王は、教えを説く際に、まず、人生の目的は幸せになることで、宗教は幸せを獲得する手段のひとつだと言われます。
 では、仏教では、どのようにして幸せを実現していくのでしょうか。
 仏教では慈悲や利他の心を説きますが、人によっては、それでは幸せになるのは他の人や生き物で、自分は幸せにならないのでは、と思われるかもしれません。あるいは、仏教は「無我」の教えだから、自分を捨てなければならないのだ、と。法王は、ご自身の経験からも、それは間違いだと断言されます。

「あわれみや慈しみの心を育むのは、他人のために行う、世界に対する捧げ物、という印象を受ける場合が往々にしてあります。ですが、それでは表面的にしかとらえていません。自分で体験して感じたのですが、あわれみを実践すると、他人に対してではなく自分に対して直接のプラスとなるのです。自分自身には100パーセントのプラスになりますが、他人にはその半分でしょう。ですから、あわれみを実践する主な理由は、自己の利益のためなのです。」『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』アーティストハウス

 仏教の慈悲の心が自分にとって100パーセントプラスになるというのは、次のようなメカニズムによってです。
 仏教を信じようと信じまいと、慈悲の心を持とうと持つまいと、その人に不幸や困難が訪れることはあります。私たちは関係の中で生きている以上、それを逃れることはできません。その時、もしその人が自分のことだけを考え、自分の利益のみを追求している人だったら、その不幸は、すべてを奪い去るものとして感じられるでしょう。もうこれ以上生きていても無駄だと考えるかもしれません。それに対して、慈悲の心を持ち、利他を考える人にとっては、まったく同じ不幸や困難が訪れたとしても、それは自分の問題関心のごく一部でしかありません。ちょうど、底の浅い船は少しの波でひっくり返ってしまうのに対して、底の深い船は大波が来ても転覆しないようなものです。

「自分のことだけを考えているときには、現実を見る焦点は狭まり、そのために不愉快な物事が大きく映り、恐怖や不快やみじめさに打ちのめされたようになります。ところが、他人を気づかって思いやれば、視野は広くなります。広くなったものの見方の範囲内では、自分自身の問題はそれほど重要でないように映ります。これが大きな効果を生み出すのです。他者を思いやる感覚を持てば、自分自身の難局や問題にかかわらず、その人は一種の精神的な強さを示すことでしょう。精神的に強くなると、自分の問題の重要性は薄れ、厄介なものではなくなります。自分自身の問題を超越して進み、他の人を大事にすることによって人は精神的強さや自信、勇気、安定感を得るのです。」『思いやりのある生活』光文社知恵の森文庫

 ダライ・ラマ法王が、教えの質疑の時間に、不幸な境遇を訴える人に対して、「視野を広く持つと効果があるかもしれません」と勧められるのは、このためです。
【利他の心の手がかりは、幸せになりたい自分の気持ち】
 では、どのようにして他に対する慈悲の心を養っていくのでしょうか。
 ダライ・ラマ法王はよく、幸せを望み苦しみを望まないことは、自分も衆生も変わりがない、と説かれます。幸せになりたいという自分と同じ思いが衆生にあることを認めるのが、仏教の慈悲の心です。

「他の人を気にかける感覚を伸ばすときに土台となるものがあります。意外に思われるでしょうが、自分自身を愛せる能力が基礎となるのです。自分自身への愛情は、何も自分に恩義があるので生れるのではありません。それどころか、自分を愛せる能力の根底にある事実は、人はみな本来、幸福を願い、苦難を避けたいと思っていることです。幸せになり、苦しみを避けたい欲求がなければ、自分を大事にすることはないでしょう。この事実にいったん気づけば、愛情をその他の有情の生き物に広げることができます。」『思いやりのある生活』

 実際に他に対する慈悲の思いを心の中に生じさせ、それを一切衆生に広げていく時に手がかりとなるのも、自分が愛されたという思いです。それは「一切衆生を前世で母であったと考え、その恩に報いる」という教えですが、チベット特有のものではなく、日本仏教の伝統(例えば『歎異抄』)においても説かれていたことです。

「一般的に仏教修行に携わる前は、目的や恩恵に目が向きます。あたりまえの話です。その段階を抜かして、ただあわれみを育めと言われても、たいていの場合、たいして中身のない人為的なものを育む結果になってしまいます。たとえば、あわれみを育むための昔ながらの仏教の方法では、有情のものひとつひとつが自分の母親であるかのような観点を作り出します。……なぜするのでしょう? それは、あらゆるものを自分の母親と見ることで、情愛、慈しみ、やさしさ、好意、感謝などの意識が生まれるからです。行動に移す理由が理解できれば、あらゆる有情のものが実は自分の母親かどうか確信できなくても、目的を見据えて恩恵を期待しながら、足を踏み出せるのです。」『なぜ人は破壊的な感情を持つのか』

 この教えの核心は、自分が愛情を注がれた記憶を呼び覚ますことが、その相手に対する自然な愛情を蘇らせことにあります。仏教はその自然な思いを、一切衆生に広げていくのです。義務として利他や自分を捨てることを強いるのではありません。
【現代社会に活かす際の注意点】
 とはいえ、これを現代社会において実践する上では、注意すべきことがあります。それは幼児虐待の問題です。母親から虐待された人に、一切衆生を母親と思えというのは逆効果です。しかしこの教えの本当のポイントは、相手が母親かどうかではなく、愛情を受けたことを思い出すことにあります。虐待をしてしまう親は実は自分も虐待を受けていた、ということがよく言われます。愛されなかったという思いが、他への愛情を阻害するのです。しかし、人間は生まれ落ちた時点では、一人で生きていくことはできません。親に十分愛されなかった人でも、誰かしら手を差し伸べた人がいたはずです。その人の愛を思い出すこと、それが鍵なのです(実践においては、ソギャル・リンポチェ『チベットの生と死の書』講談社12章を参考にされることをお勧めします)。
 私の幸せを妨げているのは、私だけにこだわる視野の狭さです。それを広げることができるのが慈悲の心で、それを育むためには、自分が愛情を受けたことを思い出して相手への自然な愛情を呼びさまし、それを広く一切衆生に向けていくことが必要です。
 日本でもチベットでも、伝統的な仏教の実践階梯の最初の教えは、「人間として生まれたことの貴さの自覚」です。仏教の実践はここから始ます。

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